神話の国、宮崎に建つ由緒正しい古いお社です。式内社であり日向の国一ノ宮、旧社各は国幣小社、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。祭神に大己貴命を祀ります。創建は古く社伝によれば神武天皇の即位6年前(紀元前666年)に神武天皇が宮崎の宮を発し東遷の折、この地に立ち寄り国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し祭神を祀った事に遡るとされています。また神功皇后が三韓征伐に際して舟の守護神として「吐乃大明神」を勧請したとの記述をもって、皇后が凱旋後に社殿を造営したのが始まりとも伝えます。この付近一帯には縄文時代の遺跡が分布する他、円墳や前方後円墳も20基以上の都農古墳群があり、当社鎮座地からも土器、石器類が出土している。このように早くから人類が居住していたことが知られ、当社の歴史も太古の昔に遡るとされています。承和4年(837年)に官社に列し(続日本後期)、天安2年(858年)に従四位上が授けられる。延長5年(927年)、式内社に列する。天文18年(1549年)には藩主伊藤義祐により社殿が造替される。この様に日向第一の大社であったが天正6年(1578年)、島津、大友両軍の擾乱により社殿や古文書、宝物の全てを焼失し荒廃する。延宝3年(1675年)の頃には「其後取立る人も無しとて、僅の小社となり御名さへ知らず、只明神とのみ言へり」といった状態であった。その後元禄5年(1692年)、藩主秋月種政により再興があり、歴代高鍋藩主の崇敬を受けた。...
Read more都農神社(つのじんじゃ)。宮崎県児湯郡都農町大字川北。
式内社(小)、日向国一宮。旧国幣小社。 明治以前は「宮崎社」「宮崎宮」とも称されていた。地元では「一の宮神社」とも呼ばれる。
主祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと)。 大国主命(おおくにぬしのみこと)に同じ。古くからの都農町一帯の守り神であることから、土地の神として大己貴命を充てたものであるとされている。 なお、『塵袋』には「吐乃(つの)大明神」とあり、『塵添壒嚢鈔』はそれに追書して疱瘡の治療に霊験あらたかであると載せている。また田畑の虫害を除くとの信仰もあった。 とあります。
資料によると、 社伝によれば、神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという。また神功皇后が三韓征伐に際して舟の守護神として「吐乃大明神」を勧請したとの『塵添壒嚢鈔』の記事を引用して、皇后が凱旋後に社殿を造営したのが初めであると伝えている。同じく『塵袋』には、神功皇后が三韓征伐から帰還した際に、「韜馬の峯」で弓を射たところ、黒い頭が土から見えたため、山で掘り起こした所、男女2人が現れたため、2人を神人として召し出したという。
都農町一帯には縄文時代以来の遺跡が分布するほか、円墳や前方後円墳など20基以上の古墳(都農古墳群)もあり、当社鎮座地付近からも土器・石器類が出土している。このように早くから人が居住していたことが知られ、守護神としての当社の歴史も太古の昔に遡るものとされる。
式内社に列している。当時は壮大な社殿と広大な境内を有する日向国第一の大社であったと伝えられている。その地位から都萬神社(式内小社、日向国二宮、主祭神:木花開耶姫命...
Read more日向國一宮を謳う都農(つの)神社は、大国主とも呼ばれる大己貴命(おほなむちのみこと)を祀る。地名からして都萬(つま)神社とセットな気がしてならないのだが、誰もそうは言わないようだ。境内社に素戔嗚命を祀る。 大己貴命と素戔嗚命の組み合わせは北部九州だと珍しくもないが、考えてみると出雲の神を何故、天孫が天下った九州に祀るのか。出雲自体が九州にあったのか。周防國都濃郡には式内社「二俣神社」に大物主神・八千矛神を祀るので、そのことか。
国道10号線が境内を避けてくねっていたのが、付け替えられて道の駅ができたので、今では道の駅から歩いて参拝できる。付属する一の宮公園にも駐車場はあるのに、そちらへ回る人はあまり居ないようだ。 道の駅から歩道橋を渡るので気がつくと思うが、当社は河口近くに位置する。出雲大社も似たような位置なので(昔は入海の前だった)、意図したものであろう。 独自の御朱印帳は表に社殿、裏に神使たる兎をあしらった和やかな意匠で、ぜひ実物をご覧頂きたい。
日向國児湯郡の式内社で、推古帝より前から存在していたという古社。一説には神武帝が出立前に祀るとか。ただしキリシタン大名の大友宗麟に、社殿神宝悉く焼かれ、当時のよすがは残っていない。 御由緒にいう。「初代神武天皇が御即位六年前、大和平定に向かわれる途次、国土平安・航海安全・武運長久を祈願のため鎭祭された日向一之宮である。」 門前に「神武天皇御祈願傳説地」と記念碑が立ち「神武天皇御東遷ノ御途次此ノ地ニ於テ御親ラ大己貴命ヲ奉祀セラレ国土ノ平定ヲ御祈願アラセ給ヒシト傳フ」とあるので、このことか。記紀には記さない話だが。 当地は神武天皇の本拠からやや離れた位置にあるものと、代々の住民は認識していた訳か。その割に神武天皇を祀らないのは、まだ神格化はしていなかったのか。地名「...
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