槙島城の戦いの中心地が槙島城です。元亀4年〔1573年〕2月から7月にかけて織田信長と室町幕府代15代将軍足利義昭の戦いです。義昭が敗れ京都二条城から追放され室町幕府は実質的に滅亡しました。7月28日天正に改元されてます。お互いの利害関係が合わなくなると、反目するようになります。ついに信長と決別する事にした義昭は、信長に作ってもらった二条城に堀を作り、立て籠り交戦します。正親町天皇の勅命により、和解しますが、義昭みずから和睦を破り再び挙兵して、二条城を家臣三淵藤英に任せると、自身は槙島城に立て籠ります。槙島城は当時は宇治川の中洲にあり、信長は70000を二手に分け攻撃し、12000の義昭軍は降伏します。信長は、未だ将軍職にある義昭を許し、世間体を考えたといわれています。その後1576年鞆の浦に鞆幕府を打ち建ています。一方で安土には、安土幕府があり、二重幕府が存在したことになります。明智光秀は最初義昭に仕え、その後に信長につかえています。本能寺の変の原因のひとつになったかと思います。豊臣秀吉は、前将軍職にあった義昭は10000石の大名に取り立てました。 アクセスは京都駅からJR奈良線で宇治駅北口から、右側に進み宇治川橋を右手にみて、川沿いに左折し途中国道24号を左折し、任天堂宇治工場の前を右折します。宇治駅から...
Read more足利義昭が第1次信長包囲網に失敗して京都では戦いにくいということで槇島城に籠城致しました。当時は宇治川ももっと広くて槇島城が宇治川により天然の要害で、更に大雨の影響で川が氾濫していたので遠巻きに眺めていましたが織田信長が自ら切り込んで槇島城はあっというまに落城しました。流石の信長も現職の将軍を殺すわけにも行かないので追放しました。その後の義昭は河内の若江の三好吉継や紀伊の由良に逃れましたが最終的には信長の命で羽柴秀吉に毛利輝元に引き渡されました。その時に毛利輝元や吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊が義昭を引き取るのに露骨に嫌な顔をしたと言われています。信長との同盟にもヒビが入るし、義昭を匿うとろくな事が無...
Read more元亀4年(1573)についての『耶蘇会士日本通信』では、昇天祭の2日前(3/27)、信長既に近江の国に在り、不日都に来るべしと伝えられたれば、公方様は直に兵士を城内に入らしめたり。彼の主たる救援は丹波の領主ジョアン内藤殿にして直に城内に1,700の兵士を率いて城に入り、池田及びタミオク(丹波国人宇津氏)の兵並びに公方の兵5,000内外も亦来りたり。内1,000余の銃手あり。橋は悉く引き城の周囲に旗を建てたり。此の城は3つの堀と数カ所の新たなる稜堡を備へ、日本に於ては陥落する事を得ざるものなりき。、とある。
この時、摂津の国人池田衆も将軍義昭の将として、槙島城...
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