The Misumi West Port (三角西港, Misumi Nishikō) is a historic port built by the government in 1884 to promote industry after the Meiji Restoration. Its location along the Ariake Sea in Kumamoto Prefecture was chosen due to the naturally deep waters which could accommodate large ships. It was designed by Anthonie Rouwenhorst Mulder, a Dutch hydraulic engineer invited by the government. The port developed into a major shipping point for coal from the Miike Coal Mines as well as commodities like rice, wheat and flour. In 2015, it was registered as one of the World Heritage Sites of Japan's Meiji...
Read moreMisumi Port – A Peaceful Golden Week Escape
Visited Misumi Port during Golden Week and was pleasantly surprised by how quiet it was compared to other tourist spots. There were only a handful of people around—some locals fishing, others just strolling along the waterfront. From the port, you can see the first Amakusa bridge in the distance, adding a scenic touch to the view. The area has a nostalgic charm, with old buildings that show their age in the best way, giving the port a timeless, laid-back feel. It’s a lovely spot to unwind, take photos, and enjoy a...
Read moreオランダ人でムルドル氏は明治の産業革命遺産としてあった三角港の築港設計を行っている。
三井三池炭鉱から出る石炭や米、麦、硫黄などは有明海の深度が浅い故、この港が深く作られたお陰で中国の上海に輸出運搬できていたのである。当時はムルドル氏は破格の給料で雇われていた。現代で換算すると月給465万の高級取り技師であったと言われている!
そのムルドル氏を呼び寄せたのが「富岡敬明」であり、この御人、実は波乱万丈の人生を送っている!
富岡敬明は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩藩士の家に生まれている。同藩藩士の富岡家に養子入りし、次期藩主鍋島直亮の御側役から藩士としていたが、直亮がわずか25歳で病没すると、その混乱に乗じて御蔵方大田蔵人が藩政を牛耳ろうとする動きを見せる。これを憂慮した富岡らは、藩政の刷新を計画するが、そのなかで同志が太田の暗殺を試みて未遂に終わってしまう。このグループのトップであった富岡は三年間にも及ぶ取り調べのうえ死罪を言い渡されるが、鍋島斉正に助けられたものの終身禁固となり、また富岡家は取り潰されてしまっている! 以後、恩赦を受ける明治2年(1869)までの間5年間の40代を不遇の日々として過ごしている。
明治5年(1872)3月には山梨県権参事(現在の副知事)として山梨県庁に着任するが、着任して早々の8月に県庁を震撼させた大小切騒動に直面している。 大小切騒動は、江戸時代以来甲斐国の国中地域(山梨・巨摩・八代郡)で適用されていた大小切税法の廃止に対して反対する農民による民衆運動であった。
しかし騒動の首謀者を処罰するにあたり、この大小切騒動の収拾にあたった富岡は、代表者を死罪とした事態処理を残念に思い続けていたと言われる。佐賀県出身である富岡が熊本県令退任後に小城藩騒動で、政道の正しさを求めて投獄された経験のある富岡は、農民の暮らしを憂いて騒動の代表となり、果てに刑死した騒動の代表者たちには、格別な思いがあったと言われている。
次に熊本県着任2年目の明治10年(1877)2月に勃発したのが西南戦争である。 西郷隆盛率いる不平士族1万数千が鹿児島から熊本へ迫り、当時、熊本県庁も熊本鎮台も熊本城内にあり、富岡や熊本鎮台の谷干城司令官は城内に籠城した。政府からの征討軍が到着するまで数に劣る熊本鎮台と富岡はよく持ちこたえている。50日あまりの籠城戦を経て西郷軍の囲みが突破され、熊本城は解放された。
富岡は近代日本最大の内乱という困難から始まった富岡の熊本県政は、戦乱からの復興や港湾整備であった。 その施策のなかで特筆されるのが、福井の三国、宮城の野蒜と並び、「明治三大築港」と称された「三角港の整備」(みすみこうのせいび)である。西南戦争の被害からの復興や、九州産の石炭の搬出、国防上の理由などから建設が認められ、その建設適地が調査された。そこでオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルが任にあたる。
明治17年(1884)に富岡は三角港着工に漕ぎつけ、日野春開拓の時と同様、退庁後、毎日のように督励に赴き、現場の作業員をねぎらったとされる。明治20年(1887)8月に三角港は開港している。また今では胸像が港を見続けている。また生涯に4人の妻との間に...
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