2025年7月の週末に参拝。広くひらけた境内に立派な拝殿や摂社、社務所などがあり、駐車場ではお祓い、拝殿でのご祈祷など、随時、社務所にて受け付けていただけるようです。駐車場からだと、拝殿に向かって右側から境内に入る形になりますが、そちらから入る方のために、鳥居が設けられています。正面の鳥居は道路沿いにあり、立派に構えられています。手水舎は竹筒から細い水が落ちてくるタイプですが、以前は水が湛えられていたのであろう、立派な石造りの水鉢がありました。拝殿には鈴緒が2つ、下げられていますが、地元の漁師の技で作られる独特な編み方がされているのだそうです。なお、上についている鈴も、ガラガラとなるタイプではなく、小さな鈴が連なって鳴るタイプにされたのだとか。社務所では、さまざまな授与品が用意いただいていますが、社務所内は撮影禁止ですのでご注意ください。
御祭神:日本武尊 相殿神:吉備武彦命・大伴部日蓮命・七束脛命 大祭日:8月12日、13日
由緒など: 当社の総研は、駿河国風土記によると、反正天皇4年(409年)と伝えられています。古事記、日本書紀によれば、景行天皇40年(101年)7月、大和武尊が、弟橘姫を伴い、東夷御征討に向かわれました。一行がこの地に赴いた際、敵の罠に嵌り火に囲まれてしまいます。そこで尊は天叢雲の剣で草を薙ぎ払い、向火を放って敵を退けました。この御実績により「焼遣」(やきつ)から転じて、焼津となったと言われております。 古来入江大明神とも称され武家からの信仰も厚く、慶長8年(1603年)には徳川家康により本殿が造営されました。 大祭は、東海一の荒祭とも言われ、二...
Read more焼津神社は日本武尊を主祭神とする延喜式内社である。 総国風土記に反正天皇四年(409)創建とある古社であり、日本武尊伝承で知られる。
武家時代に入江大明神と称したことから「入江さん」とも呼ばれる。 また、毎年八月十二、十三日に行われる大祭は「東海一の荒祭」として名高い。
多くの摂末社のうち、明治三十四年に焼津神社境内に合祀された五社神社には、かつての境外末社が寄せられている。 その内訳は、藤之宮神社、天神社、王子神社、市神社、天白社である。
五社神社について、焼津町誌には 「明治三十四年五月八日 境外末社藤之宮以下六社 縣社焼津神社ハ合祀の指令ヲ得テ境内末社トス」 とあるが、焼津市誌では 「藤之宮以下五社は、明治三十四年五月合祀指令ヲ得て当焼津神社の境外末社とした。」 とされ、六社から五社に一社減ってしまっている。
減ってしまった一社は「佐宮子社」である。 大正二年の焼津町誌に、わずかに「佐宮子社」の記載がある。 その書きぶりから、佐宮子社は天白社とともに「天白ノ森」に鎮座していたと思われる。 天白の森から焼津神社境内に遷される過程で天白社に吸収されてしまったのだろう。
(「焼津町誌」、「焼津市誌」、「焼津市史...
Read more焼津神社の御創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられており、今から1,600年以上も前になります。 日本武尊の知恵と勇気と優しさを称え、焼津の守神としてお祀り(おまつり)をしたことが焼津神社のはじまりです。 神社を含む一帯では、宮之腰遺跡という1,600年程昔の遺跡が出土しており、古代祭祀の道具や人々が生活していた跡が発見されていることから、その時代からこの場所に神社があったことがわかります。
室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。
今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や命がけで漁に出て働いていた漁業関係者にとっての心の支えとして崇められ、現代までその信仰が受け継がれています。
御祭神は日本武尊で境内には像もあります。
御朱印は手書きされています。 御朱印帳も3種...
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