6月に車遍路でしたが、階段を上がって本堂と大師堂にお参りした後に、更に登って行くと水道も止まっていて手も清められない見事に寂れた神峯神社があります…更に山道を登って行くとお大師さまが腰をかけて遠くを眺めたと言われている腰かけ岩がありました…途中案内標識が倒れていたり、腰かけ岩の手前に倒木やクモの巣が沢山あったりプチ探検気分が楽しめました。肝心の眺めは周りの木が邪魔をして水平線しか見えませんでした。また、お寺さんに色んな話が聞けて楽しめました。ただ、急斜面なのでノーマル車ですが四回程底を擦ってしましました…車道とは異なるも、歩いて登るにはしっかりとした丈夫な靴と体力が必要ですね。遍路転がし恐るべし。10月に再度参拝…赤不動は素晴らしい出来ですね…羂索は持たないタイプで後炎は不死鳥…本堂大師堂以外にも経を納めてある観音堂にもお参りしました…納経所の前にある鐘は1回だけ撞かせて頂けますが、欲張って力任せに撞こうとするとかえってショボい音色になりますよ〜鐘つき棒が柱にぶつかって横柱が削れてしまうので迷惑ですね…梵鐘は割れたりヒビが入る事もあります…一千万円クラスなので大切にしましょう! 石段は本堂まで160段…更に大師堂まで22段でした。 霊水がドバドバ流れていますが、生水なのでヘリコバクターピロリ菌とか含まれている恐れがあります。沸かして飲みましょう。 自動販売機とか何も無いので飲み物位は予...
Read moreメッチャ狭くはないが急カーブもあり気をつけて運転してください。 駐車場からの階段もけっこうキツいです。
【神峯寺の歴史・由来】 神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。 幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、いまも伝わっている。 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。
山門 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。 昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実...
Read more四国八十八ヵ所霊場の参拝でお伺いしました。 真言宗豊山派のお寺で竹林山地蔵院神峯寺といい、霊場第二十七番札所になります。 御本尊は十一面観世音菩薩(伝行基菩薩作)になります。 神峯山中腹の標高四百五十メートルの急勾配に建つお寺で土佐の関所寺です、通称「真っ縦」と呼ばれ遍路ころがしの一つに数えられます。 神功皇后の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる、聖武天皇の勅を受けた行基菩薩が天平二年(730年)に十一面観世音菩薩を彫造して御本尊とし神仏合祀を行った。 その後弘法大師が伽藍を建立し「観音堂」と名付けたのが大同四年(809年)の頃とされている。 神仏習合の霊場であったためお寺の山門の横には神峯神社の鳥居が立っています、神峯寺も明治初期の廃仏毀釈の嵐にのみ込まれ神峯神社だけが残り御本尊は第二十六番札所金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運にあった。 再興は明治の中期になってから元僧坊の跡に堂舍を建立して御本尊を帰還させ霊場は復活したが寺格が無いため大正元年(1912年)茨城県稲敷郡朝日村の「地蔵院」を移して認可を得るなど苦難の道を歩んだが今日にいたっている。 鐘楼の後ろから高知の名水として知られる神峯...
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