▼結構、近所にも名木はあるもんですね。影向寺(ようごうじ)の乳イチョウ。 ▼乳イチョウは全国あちこちにあり、乳柱を削った汁で乳が出るようになったという伝承が多いです。 ▼イチョウには気根(きこん)という空中に露出している根っこがあるようです。 ▼これがイチョウの樹齢とともに数を増やしていき、やがて乳イチョウと言われるような生のパワーを感じられる程の大木になるようですね。 ▼ここ影向寺は川崎市内では最古のお寺のようです。 ▼天平11年(739年)、聖武天皇は、仲の良い光明皇后が病気になり、深い心配をしていました。 ▼そんな天皇の夢枕に、遠く東の国に霊石があるとのお告げがあったのです。 ▼喜び勇んだ天皇ですが、夢のお告げだけでは、その霊石の特定は難しいと感じたのでしょう。 ▼その前年(738年)に「行基大徳」との諡号を授けた行基は全国の土木事業を先導したことで有名で、全国行脚をしていることから、聖武天皇が彼を呼び寄せて夢告の話をすると ▼「その霊石は、武蔵野国・橘にある影向石のことでしょう。拙僧が出向き恢復祈願をしてまいりましょう。」といつもの行基らしく、71歳にもかかわらずフットワーク軽く奈良からこの地まで足を運ぶのでした。 ▼祈願すると、あっという間に皇后の病気は快癒します。喜んだ聖武天皇は翌年740年、ここに伽藍を建てて謝意を表したというのが、このお寺の縁起なのです。 ▼ちなみに、フットワークの軽い行基が東大寺・大仏像造営の勧進に起用されたのが、743年です。 ▼残念ながら大仏開眼の752年には行基は生きていません。弟子が開眼供養を務めましたね。 ▼ここの乳イチョウは推定樹齢600年ですので、さすがに行基の頃をしっているわけではありませんが、影向石はしっかりと1300年に渡り見てきたのでしょうね。 ▼乳イチョウは江戸時代に乳の出ない母親が、イチョウにお願いしたところ、「乳柱を削った汁を飲め」とのお告げがあったので、そのようにしたところ乳が出るようになった等の伝承があります。 ▼お寺さんの凄いところは、この縁起に見られる天平の甍のような国家的な目線の伝承話と、そこで生活する庶民の目線の伝承話が混在するところですね。 ▼その土地土着のものを許容する度量の大きさが、これだけ日本の隅々まで仏教が浸透する1つの大きな要因なのだろうと考えながら...
Read moreう〜ん… ここ「影向寺」も東京都23区の近くに有って、非常に雰囲気の良い古刹です。
ハッキリとした古文書による創建年は、奈良時代の天平12年(740年)に高僧である行基によるとされています。が… ただ、近年の研究により それ以前の600年代後半(飛鳥時代中期~後期)には寺院として成立していた事が判ってきました。 (草創は有力在地豪族が私的な寺として建立か?在地豪族の名前は不明との事)
ハッキリとした部分としては 奈良時代に光明皇后が病になりした。そして聖武天皇がこの地に霊石が有る事を知り行基を使わし祈願させた所、光明皇后の病が治ったとの事です。 そして翌年には聖武天皇の勅命により、この地に伽藍がそびえ立った様です。 それが影向寺が栄えた由緒だそうです。
霊石は今も有ります。(写真を撮り忘れてしまったので、ご自分の目で見に行って下さい)
そして見る事は出来ませんでしたが、木造の聖徳太子像なども有ります。太子堂という建物に安置されています。
あとは 幹周り8.0m ...
Read more天台宗のお寺で威徳山月光院影向寺(ようごうじ)といい川崎市で最古のお寺になります。 御本尊の薬師如来像と脇侍の日光菩薩像・月光菩薩像の三尊像と、胎内納入の二体の小像(神像・如来像:一般公開は初めてになります)の御開帳が、お寺の令和六年(2022年)の初詣の期間(一月一日~一月三日)に行われたので参拝にお伺いしました。 影向寺はまた稲毛七薬師霊場の第二番札所になっています。 影向寺本堂裏側の耐火式収蔵庫に御本尊薬師如来像と脇侍像・十二神将僧・胎内納入の二天像(神像と如来像)と共に安置されています。 影向寺の創建は天平十二年(740年)に聖武天皇の勅願により、高僧の行基菩薩が建立し薬師三尊像を本尊として安置しました。 平安時代に入り寺は荒廃してしまいましたが、天台宗の高僧である慈覚大師円仁が再興し自ら薬師三尊像を彫刻し本尊として安置しました。 江戸中期の万治三年十月(1660年)に火災により焼失しましたが元禄七年二月(1694年)に再建しました。 御本尊の薬師三尊像は明治三十三年(1900年)国宝に指定されていましたが、現在は国指定の重要文化財に昭和二十五年(1950年)に...
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