初代神武天皇はこの辺りへさしかかりました。すると、天津神の御子が来ると聞いた尻尾のはえた人が岩を押し分けて出てきました。これがこの地方の国栖の祖先とされています。
古代よりこの地に人々は住みついたのでしょう。第15代応神天皇が吉野の宮滝に行幸した際にも国栖の人々が来て、一晩中お酒を作り歌舞を見せたといいます。
この神社の祭神は第40代天武天皇です。天武天皇元年(672)、翌年天武天皇となる大海人皇子は叛乱のために吉野に下り、この地にも数日間滞在しました。この叛乱とは大海人皇子と大友皇子による古代日本最大の内乱である壬申の乱のことです。
壬申の乱の原因は父である天智天皇の強引な皇位継承の改革、白村江の戦いの敗北による改革への不満などといわれています。
当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら側室の子であった大友皇子の弱点でした。大友皇子の妃は藤原鎌足の娘です。天智天皇が中大兄皇子だった時、共に大化の改新の中心にあった藤原鎌足に配慮してか、天皇は大友皇子を皇太子としました。この強引な改革に大海人皇子を支持する勢力が形成され、天智天皇の崩御とともに反乱の発生へつながったといわれます。
また、白村江の戦いは天智天皇2年(663)、百済の復興を企図して朝鮮半島で新羅・唐連合軍との戦いですが、大敗に終わりました。このため天皇は玄界灘や瀬戸内海沿岸に国防施設を築き、百済遺民を東へ移住させ、飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ遷都しました。これらの施策は豪族や民衆に大きな負担と不満を生んだと考えられています。遷都の際には火災が多発し、豪族・民衆の不満の現れだとされている。また、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側に反発があったといわれます。
天智天皇の崩御後、皇太子大友皇子に対し、大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発し、反乱者である大海人皇子が勝利するという内乱でした。
元々、天智天皇は大海人皇子を皇太子と考えていましたが、大友皇子に後継を譲るような意思を見せ始めました。天皇が病に臥せると、大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、出家を申し出て、吉野宮に下りました。 天智天皇が崩御すると大海人皇子は吉野を出立し、美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、積殖(伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流しました。 大友皇子側の近江朝廷は既に機能を完全に喪失していたとされ、諸国に使節を派遣して農民兵を徴発するという非現実的な方策を採択しました。結局、近隣諸国から兵力を集めることができたものの指導部の足並みの乱れから、大敗が続き、7月23日に大友皇子が首を吊って自決し、一月に及ぶ乱は収束しました。翌天武天皇2年(673)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。
この地に伝わる『国栖奏』は大海人皇子が吉野で挙兵した時、国栖に住む人々は大海人皇子に味方して敵の目からかくまい、皇子を慰めるために披露した歌舞とされています。それから1300年の伝承を守り、毎年この神社で奉納されています。または、応神天皇の時代の...
Read moreグーグルのナビでは吉野川の対岸に行き、そこから徒歩で川を渡って行く設定になっていた。でもそんな川を渡れるような場所はなかったので、逆戻りしてマップを見てアクセス。やっと小さな案内板を見つけて接近。狭い道を行き、行き止まりまで行くと駐車場があった。でもどこにも神社の文字はない。ここでいいのかぁ?ただ駐車料金500円を料金箱に入れるように指示書きがあった。まったく人気のない場所なので少しためらったが参拝に出し惜しみは禁物なので素直にお金を袋に入れて箱に投入。マップであたりを付けて川沿いの狭い道を歩き出す。すぐに浄見原神社の案内や由緒書などが現れた。まもなく神事に使われるだろう仮屋が見えてきた。そのまま川沿いの水平路を歩くと神社発見。あとは興奮しながら参拝と撮影。ここに天武天皇が居られた。帰りは意気揚々と。でもだれにも会わなかった。この国栖の集落の人々は、神武天皇をこの地で出迎え、舞いで歓待した。国栖の人々こそが本来の日本人だという人もいる。天武天皇の遠征にも協力した。そう簡単に接近させてくれないのもその...
Read more天武天皇を祀る『浄見原神社』 浄見原神社(きよみはらじんじゃ)は吉野町南国栖に位置し、天武天皇を祀る神社です。奈良県無形文化財に指定されている歌舞【国栖奏(くずそう)】で有名な古社でもあります。この国栖奏は毎年旧正月十四日に神社境内で古式ゆかしく行われます。早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性【舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人】が神官に導...
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