玉里鎮的人潮相較之下少了許多,相較於特地前來此地的遊客,或許因前往六十石山而中途停留的人還更多,玉里古神社至今仍默默地隱身在巷弄間,僅有少數人前來此緬懷歷史。
玉里鎮西邊街的一個窄巷裡,錯落的民宅間竟藏著一座鳥居。灰色的柱子與周遭磚瓦、鐵皮屋頂奇妙地融合,電線交錯其上,將本應顯眼的鳥居隱藏在環境中。玉里神社在1928年(昭和3年)落成,主殿已經傾頹,目前僅存表參道階梯、石燈籠與兩座鳥居,是花蓮縣內保存最完整的神社遺跡。
玉里神社本已埋沒在荒煙蔓草中,成為流失在歷史裡的神祕遺跡,直到民國98年,一群玉里在地的年輕文史工作者主動發起清掃活動,結合在地人的力量,讓隱沒在樹林間的神社遺跡重見天日。經過規劃與整理後,成為如今所見的樣貌。沿著參拜道行走,沿路可見到許多石燈籠,如同中國廟宇的梁柱上經常寫有捐贈者姓名,石燈籠上通常會寫「奉獻」、「奉納」,並刻上捐贈者或是單位的名字。
在日本神社建築中,鳥居有分隔人間與神之領域的意味。石燈籠的作用除了裝飾外,亦有為來者指引道路之意,走了幾分鐘後,會看到石頭階梯出現,代表即將接近神社本體,也就是以前的拜殿與本殿。從入口的鳥居走到山坡頂雖然是一路上坡,卻相當和緩好走。玉里神社的頂端是一片平坦的空地,沿著照片中看似綿長的階梯直行,不過幾分鐘就能抵達終點──本殿遺跡。
本殿於二戰後日軍撤退時被摧毀,之後雖然有熱心志工重整此處,但仍無法修復。如今只能將遺跡圍起,供人憑空想像。山坡頂也是眺望玉里鎮的好地方,以前樹木還未長高時,能在這裡將平原盡收眼底。如今樹木已高,就只能從縫隙間窺望,自行在腦海中拼湊出全景了。往回走下山坡又是不同的風景,在高處俯瞰綿長的階梯,蓊鬱的樹林將表參道包圍其中,直撲參觀...
Read more玉里神社遺址位於玉里車站後方山邊,可以俯瞰玉里鎮市街。本神社為日治時期【鄉街社政策】下的建築,主體已圮,僅存二座鳥居、部份燈籠殘構及參道階梯,構造為仿石,鳥居旁留有表忠碑,這座神社為當時花蓮南區相當重要的神道教信仰中心。
昭和3年(1928)10月22日舉行鎮座式,祭神為北白川宮能久親王及開拓三神(大己貴命、少彥名命、大國魂命)。日治時期,警察、部隊征伐附近的布農族人,以及男子受徵召服兵役等出征前,都會到玉里社祈福,祈求出征軍人「武運長久」。
神社入口右側設有「表忠碑」,以表彰為理蕃或瘴癘之氣犧牲的日本軍警人員。戰後,日人撤離臺灣,加上信仰的不同,神社空間一度成為居民承租改為農田使用,而部分設施未經保護而破壞,整個神社傾頹於荒蕪雜草樹林間,表忠碑則被民宅包圍。
民國98年,由熱愛地方文史的鎮民自發性組成玉里神社志工隊,展開神社的保存維護與經過數次清理,整理出本殿與拜殿的遺構,扶正石燈籠,並清除參道上的蔓生植物,玉里神社的原貌逐漸展露,不僅為玉里鎮保留難能可貴的歷史,也為後代提供最佳的人文教材。
從玉里神社基地範圍的本殿神明造、拜殿入母屋、神明鳥居、石燈籠等奉納字樣,主體雖已圮,僅存的二座鳥居、17座石燈籠殘構及參道階梯,留下表忠碑,曾立於此的八通關開鑿紀念碑,更可與八通關古道串連成一個文化系統。主體已遭毀損,但從現存的遺跡看來,當時整個神社的規模應該是相當壯觀,為目前花蓮縣境內保有文物最多的神社遺址之一。
而參拜道兩旁的石燈籠多屬大型物件,具有獨特性,加上玉里神社就位於日治時期八通關越嶺道上,過去所立「八通關開鑿紀念碑」雖已遷至南安管理處前停車場旁,但都足見玉里神社...
Read more宗教というものは、 為政者の方便として利用されてきた歴史があるから、 或いは為政者に取り入って権勢を振るって来た歴史があるから、 日本が敗けて台湾から去った後に台湾に逃げ込んできた、 台湾にとっては外来政権でしかない中華民国国民党が、 或いはこれに迎合した、せざるを得なかった台湾民が こうした日本由来の寺社仏閣を目の敵として片端から打ち壊した。
国民党も共産党も、民人を救うという理念の下に立った筈だが、 民草が心を寄せた礼拝所というものに対する配慮がまるで無い。 異民族の布いた宗教は統治の邪魔になるという訳だ。
日本に学び、戦後処理の事前協定たるカイロ会談では 日本の国体と皇室の護持を訴えてくれた蒋介石だが、 自国となった台湾の統治に当たって、 日本の遺したものをそのまま引き継ぐつもりはない。 当たり前と言えば当たり前。
啓蒙的立場、上から目線を絶対に譲らない、 革命家たる彼らのすることなので、こんなものだろう。
そも、日本でも、 神と仏の扱いが為政者に拠って改められるたびに、 こうしたことは行われてきたのだから、 戦後の台湾に於けるこうした事象については、 大らかに受け止めたいものだ。
こうした事どもは残念な事ではある。 私達は信心の本質をもう少し考えるべきだと思う。 (私は神を信じても宗...
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