石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)。 式内社(小)、備前国一宮。旧社格は郷社。
資料によると、 十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は仁徳天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されている。
『延喜式神名帳』では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興した。次代綱政は延宝2年(1674年)社領20石を寄進し、宝永7年(1710年)に社殿・神楽殿を造営した。その後も歴代の藩主の崇敬を受けた。
明治6年(1873年)に郷社に列した。祭神を素盞嗚尊に変更したのはこのときと見られる。明治40年(1907年)、大火で山頂の社殿が焼失し、大正4年(1915年)に中腹の現在地に再建された。
山上にある本宮(奥の院)が、昭和59年(1984年)2月18日に赤磐市史跡(指定当時は旧吉井町)に指定された。本宮本殿背後に巨石(磐座)が幾つかあるが、 磐座周囲は、針金で結界されて禁足地となっている。 とあります。
主祭神:素盞嗚尊。
明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれている。 大正三年に公刊された『大和志料』が収録している「石上振神宮略抄」という資料には、 布留宿禰は春日臣と同祖にて、天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命の三子、市川臣は十三代成務天皇の御世に、石上振神の乞言によりて物部連に代て神宮の神宝を治しめ神府の典やくに補す。仍て物部首の氏姓を賜う。 十七代仁徳天皇御宇、市川臣に勅して吉備神宮に祭る天羽々斬剣を石上振神宮に遷し蔵め加え祭る云々。
「布都御魂」は、物を切断する「フツ」という音。 この剣は、古事記では、「十拳剣」、 日本書紀には、「十握剣」「蛇の麁正」「韓鋤の剣」「天蠅斫」。 「十拳剣」「十握剣」は、その長さ表わし、長剣であったことがわかる。 「麁正」「韓鋤」は、半島からもたらされた剣。 「天蠅斫」は、蛇を斬った剣の意味とされている。 その剣で八岐大蛇を斬った時、その尾から叢雲剣が現われ、三種の神器となった。 比喩的に解釈すれば、渡来の製鉄技術による剣で、当地を平定し、 技術供与を受け、国産の剣の量産化に成功した事績と見る事...
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Read moreどうしても磐座の本宮に上がりたくて、意を決して訪れました。 行きたいと言った時に、色んな方に山登りだからって心配されてしまった。 でも行きたいって気持ちが勝ったみたい。 駐車場から、この坂登るの?って今までの神社と、初めから違う感じ。 参道ってかかれてるのに、そんなふうに見えない細いくねくねした坂道。 上がってくと、石段が見えて、登りきると急に開けた境内。山に隠されたかのような神社でした。 石上布都御魂神社は、以前血洗いの瀧に行ったときから、どうしても訪れたかった場所。 八岐大蛇を退治した素戔嗚尊が血のついた剣を洗ったとされる血洗いの瀧。その洗った剣を御神体としていた石上布都御魂神社。その剣はその後奈良県の石上神宮へと納められる。そんな歴史も大好きな神社。 そして磐座も大好きだから、どうしても本宮に上がりたかった。 途中の道は確かに険しい。階段もあるけど、ほぼ山道。時間にして10分って書かれてたけど、それ以上の時間をかけてしまった。 途中心臓がバクバク呼吸も苦しくて、そんな中本宮への鳥居が目に入る。 あとちょっとでゴールだ。人はゴールが見えると心が軽くなるんだと強烈に感じた瞬間。 でも、足は重かった。 まるで龍の背中の上を歩いているかのようなイメージの階段は迫龍の階段というらしく、後44段➕18段と教えてくれる。 上り切ったら振り返って観て 段が鱗で、うねり具合が丁度良い 書かれてるように上り切ったあと 振り返って観たら なんだか涙が込み上げてきた。 本宮の周りの磐座は禁足地。 山自体が御神体の大神神社を思い起こされる。 静かに息を整えて今度は下り。 上るより足に負荷がかかってくる。 降りた先のお土産売り場の方に、大丈夫?と声をかけられるほど しんどそうな顔をしてたのか。 お茶とお菓子を出され、ゆっくりまったり休ませていただきました。 本宮に上がるのはなかなかの苦しさだったけど、人の優しさにも触れた素敵な参拝でした。 御朱印は自販機で購入。それもまた時代を感じます。 帰る時には雨がちらほら、聞こえてた鳥のさえずりから、カエルの鳴き...
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