2023/9/29...
Read more資料によると、 昭和五十九年に県から「ふるさとの森」の指定を受けた美しい杜に囲まれて鎮座する当社は、源頼義・義家親子が天喜四年(1056)の奥州征伐の際、この地に本陣を設け、鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所を建てて戦勝を祈願したことに始まる。当社の社殿が東北を向いているのは、こうした創建の事情によったものであり、隣接する拾六間の地内には義家の設けた陣屋の跡地もある。また、当地は、寿永二年(1183)には鶴岡八幡宮の社領となっており、寄進状が現存する。 江戸時代の当社の状況については、『風土記稿』三ヶ尻村の項に次のように記されている。 八幡社 村の鎮守なり、神職の伝へに当社を、延喜式内田中天神なりといへり、されど証とすべきこともなし、此地は古鶴岡八幡宮の所領にして、殊に文書にも村名の条に載せたる如く、寿永二年鶴岡八幡社領となりし地なれば、彼社遥拝のため勧請せしものにて、其頃より鎮座なることは知るべし、田中天神のことは延命寺の天神にも云処なれば、何れが正きを知らず。 この文中に出てくる田中天神とは、『延喜式』に幡羅郡四座の一つとしてその名が見える田中神社のことで、当社、三ヶ尻地内にある田中神社、川本町田中の知形神社の三社が論社とされている。しかし、未だにいずれの社が延喜式内の田中神社なのか、判然としていない。 とあります。
三ヶ尻の街中にあり、神職常駐で、隣に小学校もあり...
Read more直書きの御朱印いただきました。
三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。
熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。
三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存...
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