寛政の改革で知られる松平定信は外国船来航に備えて富津岬に台場を設置する必要性を唱えました。
幕府がこれを採用したのは定信失脚後の文化7年(1810)で、文政4年(1821)に陣屋が設置されました。
明治15年(1882)以後、富津洲は大日本帝国海軍の軍用地となり、沖合に第一海堡と呼ばれる人工島が築かれました。
日本は明治から大正にかけて、帝国陸軍大将の山縣有朋が大日本帝国の要塞化を主張し、東京湾には首都防衛のために3か所の海堡が造成され、陸軍兵舎や砲台が建設されました。
第二海堡と第三海堡は大正12年(1923)9月1日の関東大地震により被災し、その年のうちに廃止・除籍されましたが、第一海堡は第二次世界大戦の終了時まで運用され、占領軍により要塞無力化のため中央部が破壊されました。
戦後は千葉県に払い下げられて県立の富津公園となりました。
〜松平定信〜 江戸時代中期の大名、老中、陸奥国白河藩の第3代藩主で、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫にあたります。
宝暦8年12月27日(1759年1月25日)、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として出生。
幼少期より聡明で、17歳の頃、将軍家治の命によって陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となりました。
天明2年(1782)、西国の凶作によって江戸の米価が急騰し、東北諸藩や商人達は備蓄米まで売り払い、大きく儲けました。
しかし、翌年、東北は春から天候不順で夏も冷害に見舞われ凶作が予想されました。
にもかかわらず、東北諸藩は江戸への廻米を行ない続けました。
庶民は江戸への廻米に反対し打ちこわしを起こしましたが、江戸廻米は強行され飢饉の被害を増大させました。
当時、幕府は飢饉対策用の備蓄米を役に立たないという理由で減らしていたため、飢餓輸出を行う東北諸藩へ救援を送るどころか、むしろ江戸に米を掻き集める政策を行いました。
白河藩でも裕福な家臣や町人が米を売り払ったことで米不足が起こり家臣への俸禄の支給が遅延していました。
当時の藩主で、松平定邦は被害が少なかった越後から米を輸送し、江戸へ赴き会津藩と交渉して12月までに会津藩米6000俵を白河へ移送、他にも他藩や上方からの米購入も図りました。
この飢餓対策は松平定信の助言によるものといわれ、同年10月、定信は家督を相続し、藩主として藩政の建て直しを始めることとなりました。
白河藩の飢餓対策は奥羽において類を見ないほど適切であったと評されました。
天明6年(1786)に家斉の代となり、飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、その翌年の田沼意次の失脚後、推挙されて少年の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となりました。
田沼意次の政治によって武士は金とコネによる出世の世界となり、農村では激しい貧富の差で没落する貧農が続出し、荒地が広がっていました。
飢饉で離村した農民が都市に大量に流入し社会秩序を崩壊させていました。
天明6年(1786)には農業人口が140万人も減少したともいわれ、当時の全人口は3000人の約4.6%にも及びます。
寛政の改革はこのような諸問題の解決に向け、田沼が発布した天明三年からの七年間の倹約令を継続し、大奥の縮小、諸経費の削減など財政の緊縮を徹底し、幕府の財政を黒字化させました。
その狙いは江戸の景気を悪くし、零細商人、職人、博徒、無宿をあえて困窮させ、武家や町方の奉公人と帰農者の数が増大し、地方の手余り地の復興が成し遂げるだろうというものでした。しかし、市民から強い反発もありました。
松平定信は農村復興のため「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注ぎ、農民への減税・復興政策・低金利の貸付を実施しました。
飢饉からの回復を目指し、間引きを禁じ、児童手当の支給を実施し、寛政2年(1790)には2人目の子供の養育に金1両、寛政11年(1799)には2両に増額し、人口増加政策を行いました。
「江戸民衆の酒代で関西にお金が流れてしまっている」と松平定信は嘆いたといいます。江戸の金が流れるのを少しでも阻止し、江戸地廻り経済の活性化と技術成長のため政策を次々に出しました。
江戸近郊で作った地酒を普及させるため、希望者に資金を貸し付けたり、上方の酒の入津制限を行い、「木綿」「醤油」等の改良も奨励しました。
その結果、醤油は銚子、野田、土浦などで大成功を収め、文化年間(1804〜1818)に「濃口醤油」「上総木綿」「本味醂」などが広まりました。
しかし、お酒に関しては上方の酒の品質に勝つ酒は造れず、関東の酒蔵品質が飛躍するのは明治時代後期からです。
また、松平定信は福祉政策にも力を入れ、インフラ整備等のために町で積み立てる救済基金「七分積金」を江戸の各町に対して命じました。
明治維新の際の江戸城無血開城では多くの余剰金が見つかり、東京の街づくりに役立ちました。
治安対策のために、地元を追放された無宿人や浮浪者を一か所に集め、石川島にて大工や米つきの職業訓練をする「人足寄場」を設けました。
教育対策では幕府直轄の昌平坂学問所を設置し、幕臣子弟以外にも他藩の留学生や浪人の入学も許可し、留学生のために寮まで完備するなど、幅広く入学間口を開いたことで、半世紀後の黒船来航で難局に立った幕末において優秀な人材を揃っていました。
改革当初から諸外国からの脅威が迫り、諸外国の船の出現を受けて海防のために寛政3年(1791)9月、長崎に砲術稽古場を、翌7月に江戸郊外に大筒稽古場を設け、オランダに協力を仰ぎ、洋式軍艦を建造し浦賀や北国郡代に配備しました。
寛政の改革は成果をあげましたが、独裁的で厳しい政治は「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されました。
また、幕府のみならず様々な方面から批判が続き、僅か6年で老中を失脚しました。天明の大飢饉から幕府財政が回復しつつあるなか、対外問題、外交問題と問題山積する中での突然の辞任だったため「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と歌われれました。
しかし、定信の政治方針を引き継いだ老中達がそのまま留任し、寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなりました。
定信は洋学に強い興味を持っており、元オランダ通詞の石井庄助を召し抱え、寛政6(1794)年から一年かけて「蘭仏辞典」を訳し、これに稲村三伯らが手を加え、日本最初の蘭日辞典である「ハルマ和解」が寛政8年に完成しました。
老中失脚後、松平定信は白河藩の藩政に専念しました。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は家臣の子女への内職として織物を推し進めました。
たたら製鉄所の造設、薬草栽培、生姜、たばこ、藺草栽培、馬産を奨励して藩財政を潤わせ、教育にも力をいれました。
白河そばを特産物とし、白河市の特産物白河だるまは今でも毎年2月11日に「白河だるま市」という祭りで売られています。
享和元年(1801)には日本最古の公園である南湖と名付けた庭園を竣工し、身分の差を越え庶民が憩える「士民共楽」という思想を掲げ、家臣だけではなく庶民も慰撫しました。
文化9年(1812)、家督を長男の定永に譲って隠居しました。文政12年(1829)の1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発し、5月13日に死去しました。享年72。
辞世は「今更に何かうらみむうき事も...
Read moreThis is a wonderful place to catch a sunset and get views of Yokohama and Mount Fuji. The viewing tower is currently closed for repairs as there is a lot of rust on it now compared to when I went here the first time back in the summer of 2013. It's a good spot for some fishing or walking along the small beach as well, though right now parts of it could really use some cleanup. Still a great place to spend a...
Read moreGreat vantage point when shooting Mt. Fuji from a distance. Recommended season to visit is late...
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