新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)。大阪府茨木市西福井。
式内社(名神大)三座、旧郷社。 単に「福井神社」とも称されるが、一般的には「新屋神社」と略称される。 単位神社。
主祭神:天照皇御魂大神 (あまてらすすめみたまのおおかみ、天照大神) 天照国照天彦火明大神 (あまてるくにてるあめのひこほあかりのおおかみ)。 江戸時代には牛頭天王を祭神としていたが、明治に入って、祭神を旧に復したという。
資料によると、 社伝によれば、崇神天皇の御代に神が当地に降臨し、同天皇の7年に伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、『記紀』等に伝わる古墳時代の豪族・物部氏の祖。饒速日命の六世孫)に勅して祀らせたのに始まるという。景行天皇20年には、この神を天照皇大神と称して皇女五百野媛に祀らせた。神功皇后の三韓出兵の際、当地の川原で禊をして当社を祀り、凱戦後に当社祭神の幸魂と荒魂を西の川上(宿久庄)と東の川下(西河原)に分祀したという。
当社の裏山一帯に約30基の円墳からなる新屋古墳群があり(現在では10数基を残すのみ)、当社奉斎氏族(新屋連)との関連が指摘されている。
上古の由緒は不詳であるが、中世以降は島下郡の総社として、摂津国守護や地頭を始め、庶民の崇敬を集めたとされる。大永7年(1527年)に兵乱の害を被ってから衰微したが、天正12年(1584年)、領主中川清秀によって再興されるとともに、その内室性寿院の発願により社殿等も造営されて以来、中川氏から崇敬され、同氏が豊後に転封してからも密接な関係を保ったようで、天保年間 (1830 - 1844) の社殿造替(現在の本殿がこの時のものである)に際しても同氏から寄進を受けた。
明治5年(1872年)に郷社に列せられ、戦後は神社本庁に属さない単立神社となっている。 とあります。
参考として、 延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座 並名神大 月次新嘗 就中天照御魂神一座預相嘗祭」として記載される式内社(名神大社)である。以下の三社が論社とされ、中でも西福井のものが中心的な神社とされる。 新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西福井) - 旧郷社 新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市宿久庄) - 旧村社 新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西河原) - 旧村社 上記の3社は互いに関連しており、西福井から宿久庄・西河原に分祀されたものとも、『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されていることから、それぞれが1座ずつに対応するものともみられている。なお、社名にある「新屋」とは一説には「新野」を意味し、古代における新開拓地の意味であるとされる。 別の説では主神の邇芸速日尊の名が訛ったものとする。
『延喜式神名帳』には「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」と記載されており、3座中の1座が天照御魂神であることが判明する。この「天照御魂神」ついては『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に、「奉授…摂津国…従五位下勲八等新屋天照御魂神、並従四位下」とある。 また『日本三代実録』同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神、並授正五位下」とあるが、摂津国の「天照神」として知られるのは当社だけであり、天照御魂神は既に「従四位下」に叙されているわけなので、この「天照神」は残りの2座中の1座であり、「伴酒着神」が最後の1座であると推定できる。なお、それ以前、『続日本後紀』嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神。從五位下」とあって、これは国名を欠くものの、神名と神階の両者から、当社の伴馬立天照・伴酒着2神に該当することが分かる。
すなわち、本来の当社祭神は 新屋(坐)天照御魂神 - 名神大社で月次・新嘗・相嘗祭に預る 伴馬立天照神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預る 伴酒着神 -...
Read moreこの辺りの氏神(うじがみ)の古社です。古刹(こさつ)とは古いお寺のことです。 ということで付近を見渡しましたが、古い神社とペアになっているはずの「神宮寺」が見当たりません。 本殿へと続く石段のところに見つけました。 両側に建つ「正徳四年(1714年)九月吉日」との奉納年月の彫られた石灯籠1対の正面に「正法寺(しょうほうじ)」とありました。 稀代の悪法令の明治2年(1869年)の「神仏分離令」によって、永年に亘って、この地を守ってきた寺を廃寺にされてしまっていたのでしょう。 古い建築物の拝殿の様式は仏教寺院のものそのものでした。 府道「亀岡街道」は、もう何十年も前から、通る道なのですが、今はない松並木のある参道を突っ切るばかりで、神社へは訪れることはありませんでした。 5月中旬から6月上旬は、この神社を訪れる「絶好の時期」です。この時期には、「田ん圃(たんぼ=水田)」に水が張られていて、その中を流れる「用水路」には、水が流されているからです。 この神社がある「福井(ふくい)」は、「フク」+「イ」ということです。 ・「フク」は「吹く」です。溶鉱炉に空気を送る鞴(ふいご)を意味していて、弥生時代に鉄や銅の生産が行われていたわけです。(本村の東福井への参道にある「宮橋」のところの脇に残された古い橋の欄干には「福久ゐ橋(ふくいはし)」とありました。) 「佐保川」の「サホ」とは水草の根に瘤状につく鉄分の塊が採れる土地という意味で、それを原料に鉄を生産していたと思います。 ・「井(イ)」という漢字は、「田」と並んで「水田」を元にした象形文字だとされています。土地に着目した漢字は「田」です。土地の区画を囲む水路に着目したものが「井」となります。水田に欠かせない「用水路」のことです。 古代に建設された「佐保川(さほがわ)」上流からの「井(い=用水路)」がある土地なのです。 谷間(たにあい)の緩(ゆる)やかな階段状につくられた水田の「棚田(たなだ)」は、弥生時代からの稲作が行われてきたであろうと思われます。「棚田」の一枚一枚に、水を送ることは、川沿いの水田以外には困難なことです。佐保川の上流に「井堰(いせき=小型のダム)」を建設して、そこに取水口を設けて水を取り入れます。谷の斜面を掘り込んで、遠くまで水を送り届ける緩やかな傾斜を持つ「用水路(井)」をつくるのです。 弥生時代から「水田稲作」を行うためには、高度な測量と土木技術があったのです。 用水路建設工事には、多くの人手と測量技術、そして工事を指揮・監督する指導者が必要です。この指導者は、土地を開発した功労者ということで「神」として、祀られてきたのです。(青森県では、江戸時代に「用水路」を開削した農民を称える石碑が建っています。この地域と比べて1000年近く違っています。) そうです、「新屋坐天照御魂(にいやいますあまてるみたま)神社」の御祭神「天照国照皇大神(あまてるくにてるおおみかみ)」こそが、この地の開発の功労者ということです。(「天照国照饒速日命(あまてるくにてるにぎはやひのみこと)」は「物部氏(もののべうじ)」の祖先神です。 物部氏は倭(ヤマト)政権を武力で支えた氏族です。) ですから、参道の階段途中に石橋が架けられていて、その下を「用水路(井)」が流れています。 「新屋坐(にいやいます)」は、元の鎮座地(ちんざち)から、「旧亀岡街道」沿いのここに遷ってきたことを示します。たぶん、この神社の西側の「日降山」一帯に分布する「古墳群」や「磐座(いわくら)」と関係があるのでしょう。(天照国照饒速日命が天から降臨してきたというのは、物部氏の氏神の奈良の石上神宮(いそのかみじんぐう)の御祭神の剣を捧げた饒速日命が北河内に降臨したと伝えています。また、北河内の交野市の「磐船神社(いわふねじんじゃ)」にもある伝承です。) この地の勢力は、その後、大きく発展して、勢力の及ぶ範囲に「分社」を西は上社を「宿久庄(上河原)」に、東に下社を「西河原」に置いています。倭(ヤマト)政権との関りがありますが、「天孫降臨」のニニギノミコトと同じく天より降臨した「天照皇大神」とは別の神であると思われます。 2021...
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