旧郷社。
資料によると、 帯刀菅原神社は、この帯刀の鎮守として祀られている社です。 「明細帳」によると平安時代のはじめ、菅原道真公が九州は太宰府で望郷の思いかなわず没した延喜三年(903年)二月二十五日、その御意を全国に広めるべく、陰陽博士(おんようはかせ)の紀友成(きのともなり)は、菅原道真公の御影を背負い日本回国の旅に出発し、同年五月二十五日、当地へお立ち寄りになりました。 村人たちは村の鎮守とすべく道真公の絵姿を乞い、天歴三年(949年)九月に村内の清浄な地を選び小さな祠を建立し、併せて神代の神々より武夷鳥神(たけひなとりのかみ)、火雷神(ほのいかづちのかみ)をお祭りしたことが当社の創建と伝えられております。 その後、平安時代後期の治承年中(1177-1181)に伊東祐親(すけちか)の寄進により社殿が改築された。 しかし、度重なる戦火によって社殿が焼失したため南北朝時代の建武二年(1335年)村民により再興された。そして、江戸時代に至り、地頭伊藤刑部左衛門により社殿が修復されたと云う。 とあります。
伊東祐親については、 東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流された源頼朝の監視を任される。しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。安元元年(1175年)9月、平家の怒りを恐れ頼朝自身の殺害を図った。祐親はこの前後に出家している。とあり、この事は、当社への寄進の時期と同時期と思われます。
学問の神様、菅原神社と言う知名度もあり、神社全体が、祈願に詣でる神社と言う感じで、設備が奇麗でした。
写真を撮っていたら、外国の女性の禰宜さんが、参道のメン...
Read moreなぜ、ここに道真公が?と思ってしまいますが、案内板によれば、陰陽博士紀友成が日本回国の旅の途中で、こちらへ立ち寄った際、村人が村の鎮守とすべく道真公の絵姿を乞い、併せて武夷鳥神と火雷神を併せて祀り社殿を創立したとのことです。今日はポカポカと暖かく、ちょうど紅白の梅が見頃になっていました。お参りした際、見上げると綺麗な天井絵が描かれています。社務所でお願いしたところ、快く写真を撮らせて頂きました。社殿の裏側には、厳島・熊野・秋葉・八坂・諏訪・稲荷の神様が祀られた六神社が、右側には、稲荷神社と愛宕神社が祀られています。案内板によれば、稲荷/愛宕神社の裏側へ廻り願い事を念じながら御柱を撫でると幸福を呼ぶ/願いが叶うそうです。最後に社務所で御朱印を頂きました。 こちらでは通常版の他に英語版、ウクライナ語版があります。この他、季節の御朱印もあり、「冬」を頂くつもりでしたが「早春」が始まっていたので、早速、そちらを頂きました。うめ香る穏やかな春のような日に、素敵なお参りができました。 ーーーーー 近くまできたので、元日ということもありお参りしました。お正月だからでしょうか、手水舎はミカンが活けられ華やかな感じになっています。 お参りしたあと、社務所でお正月バージョンの御朱印を頂きました。ウシからトラへバトンタッチする可愛らしい絵柄です。福豆も無料で配っていました。 ーーーーー 4ヶ月前、正月にお参りした時は、連日、こんな形でウクライナのことが報道される事になるとは思ってもいませんでした。社の前の手すりは、みなさんが平和を祈って結んだ黄色と青色のリボンで埋め尽くされていました。寝て、起きて、仕事して、、、変わらぬ日々を過ごせること自体、とても有り...
Read more自分が高校受験でお世話になった時は改築前でしたので、今の異色の活気ある雰囲気にはGoogleマップで拝見してウクライナ仕様にとてもビックリしました。
しかし先ほど3日後の子供の高校合格祈願の為にまたお世話になりにお伺いしましたが、梅も咲きとても綺麗に手入れがされていてとても素晴らしかったです。 本堂右手にブルーとイエローのリボンと千羽鶴用の折り紙がケースに入れられ綺麗に用意されており、 参拝しに来た方が楽しめるような工夫があり他の神社とはまた違った遊び心がありました。
私も子供と一緒に祈願のリボンを結びました。 こうしたイベントのような行動が年月が経っても想い出として残され続けるでしょう。 主人は鶴をおり、本堂の中に参拝された方が折られた千羽鶴が飾ってありました。 本日のニュースでもウクライナの情勢について放送しておりましたが、平和な日常が取り戻せますよう願っております。
日曜で午後からの開始のようでしたが 見本を見ると御朱印やお守り、絵馬も様々なものが置いてありリーズナブルでした。 御朱印も素晴らしかったです。 皆様もGoogleマップの開始時間を確認してか...
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