手元に持っている『神社辞典』(東京堂出版,1979)をめくってみたが、「将門神社」の項はない。 「東京神田の神田神社,西多摩郡奥多摩町鳩の巣の将門神社,茨城県岩井市の国王神社,千葉県佐倉市の将門明神,福島県相馬市の相馬神社など,関東から東北にかけての各地には,将門をまつる御霊社が広く分布している(『世界大百科事典』平凡社)」けれども、ズバリと「将門神社」と名乗るのは、日本中でこちらだけだと説明板には書かれている。 手賀沼の対岸にも、同名の小さな祠があるようだが(確認しきれていません)、きちんとしたものはここだけなのかも知れない。
仏寺(龍光院)の境内の小山の上に祀られた小さな神社ではあるが、よく見ると社殿には各面各所に見事な彫刻が施されている。 ただ、メンテナンスされていないので、このままでは朽廃してしまうのではないかと心配である。庶民が将門に向けてきた畏怖と信仰の念は強いものなのに、だんだん崇敬者も減り、時代の波には勝てないのかも知れない。
縁起が書かれた掲示板も風雨にさらされ、判読困難に近くなっている。 新旧字体混用、文語口語の混じった、読点も使ったり使わなかったり、平安時代のことなのに「午後三時」なんて文句が入る、いかにも文章を書くことに慣れない地元の人が、一生懸命書いたと思われる微笑ましい文体である。 このままでは完全に読めなくなりそうなので、読めた限りで転記しておく。カッコ内は完全に消えている文字を、文脈から推定したもの。誤読あればご容赦を。 「将門大明神 祭神 平新皇将門 桓武天皇を祖先として父平良将と共に下総の国相馬郡岩井村に住居し下総の国の開発と共に住民の生活安定に心血をそ(そ)ぎ信望を集めたり 父良将は陸奥鎮守府将軍と下総介であった 将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す 風早村大井将門山(に)出城を置き布瀬高野に高野御殿を築き土塁跡は今も保存されている 律令制から荘園制への改変過程で領土問題より上総の国日立の国と爭いを起す 京都朝廷より将門追討の命を受け藤原秀郷関東に下る 田原藤太秀郷戦勝祈願の為成田に不動明王を祭る 日立の国主平貞盛と協力して将門公と戦う 天慶三年二月十四日春一番の突風に遭い戦斗困窮せる時 羽(数文字不明)鏑矢右眼を射抜き砂塵の中に落馬す 時に午後三時相馬小次郎将門公再び立たず 之を承平天慶の乱と云う 第三女の如蔵尼父将門居住の此の地に祠を立てゝその霊を弔う。 社殿は幾度か新築改造されたり 一将門大明神拝殿一宇 正徳二年 二新造立花表一宇 享保七年 三新造立平親王将門宮一宇 延亨元年 四新造立花表...
Read more【巡礼/将門伝説探究vol.2】 ◉寺社 将門大明神 📍千葉県柏市
平将門を祭神とした由緒ある神社「将門神社」を探究しました。
9時3分に将門大明神から龍光院へと向かいました。
⛩️将門大明神(将門神社)
☆御祭神 平...
Read more平将門公は心より尊敬する武将でありますが、畏れながら本神社では「新皇」の称号が使われています。将門公は新皇を称したことで逆賊の汚名を被ることになりましたが、不本意だったと推察します。下名としては「御祭神 平小次郎将門」を希望致します。
(※境内の掲示より) 将門大明神 祭神 平新皇将門
桓武天皇を祖先として父平良将と共に下総の国相馬郡岩井村に住居し、下総の国の開発と共に住民の生活安定に心血をそそぎ信望を集めたり。父良将は陸奥鎮守将軍と下総介であった。
将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す。風早村大井将門山に出城を置き、布瀬高野に高野御殿を築き、土塁跡は今も保存されている。律令制から荘園制への改変過程で、領土問題より上総の国日立の国と爭いを起す。
京都朝廷より将門追討の命を受け藤原秀郷、関東に下る。田原藤太秀郷戦勝祈願の為、成田に不動明王を祭る。日立の国主平貞盛と協力して将門公と戦う。
天慶三年二月十四日春一番の突風に遭い戦斗困窮せる時、羽鳴り鋭く飛んで来た鏑矢、右眼を射抜き砂塵の中に落馬す。時に午後三時、相馬小次郎将門公再び立たず。之を承平天慶の乱と云う。
第三女の如蔵尼、父将門居住の此の地に祠を立て、その霊を弔う。社殿は幾度か新築改造されたり。
一、将門大明神拝殿 一宇 正徳二年 二、新造立花表 一宇 享保七年 三、新造立平親王将門宮 一宇 延亨元年 四、新造立花表 一宇 明和三年 五、造立閉植 一宇 寛政二年 六、彩色将門大明神雨屋 一宇 文化三年 七、再建将門大明神 一宇 安政六年...
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