東別府神社(ひがしべっぷじんじゃ) 主祭神 天児屋根命 宇迦之御魂神 大物主神 合祀神 彦由岐命 埴山比売神
幡羅郡には、式内社・神名帳に記載された白髪神社の論社が四社あります。 論社である社は、妻沼の大我井神社、白髪神社、深谷の東方にある熊野大神社、東別府にある東別府神社(当神社)です。
由緒 東別府村 榛名権現社 村の鎮守とす 観蔵寺持 下同じ 春日社 古は城の鎮守なりと云 今に古城跡にありて 稲荷を合祀す 按に當社は神名帳に出せる幡羅郡白髪神社なる由 式内神社考に見えたれど 當社にては此傳なし 又近村東方村熊野社をも 式内白髪神社なりと云説あれど 二社共に明證はなし 稲荷社 八幡社 共に福泉寺持 (「新編武蔵風土記稿」参照)
別府という地名の由来については二説あり、平安末期ごろ荘園の周辺を別官符(追加開墾状)によって開墾したことによるとも、国府の支庁である別府が置かれたことによるともいわれています。 いずれにしても、この地は古くから開発された所であり、そのためか、当神社を式内社とする説もあったことが「風土記稿」の記事から知られています。
当神社は元来春日社と称し、その境内は、別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡にあり、周りを高さ2mの土塁と、幅3mの豪に囲まれています。 別府氏が藤原鎌足の後裔であることから、氏神として奈良の春日神社を勧請したのが当神社の始まりで、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失い廃城となるまで、代々城の鎮守として崇敬されました。 その後、当山派修験の勧蔵寺(後の宮本院)持ちとなり、三石が除地され、享保十九年(1734)には宗源宣旨を受けて正一位春日大明神と号しました。
神仏分離によって寺の管理を離れた当神社は、明治四十二年(1909)に大字埋鳥の村社榛名神社を合祀し、東別府神社と改称しました。 また、明治維新から明治四十二年に東別府神社となるまで、春日稲荷神社と称していたように、当神社にはいつのころからか稲荷社が合祀されていました。 宝暦年中(1751~1764)当社の再建を機に、稲荷社を元地に戻そうという動きが氏子の間に起こりましたが、神意を伺った結果、元地に戻すのを取りやめたという話が「武蔵志」に記載されています。 (埼玉県神社庁...
Read more延喜式神名帳の武蔵国播羅郡の項に記載のある白髪神社の論社の一社。 当社は藤原氏系の別府氏の居館跡である別府城跡内に鎮座している。 当社は社伝によると、藤原道長の後裔である別府次郎行隆が城を構えるにあたり当社を鎮守として奈良の春日大社より勧請したものと伝わっている。 当社の四方のうち南を除く、東・北・西には土塁と堀が比較的はっきりと残っている。 境内の案内板によると、別府城跡は平安時代末期から室町時代の別府氏の居館跡で、天正18年(1590)に落城。 別府氏は成田氏系統で、成田助隆の子が別府次郎行隆。成田氏は戦国時代を経て活躍し、「のぼうの城」に出てくる成田長親は後裔にあたる。 別府という地名だが、その由来は平安時代末頃、「別官符」によって追加で開墾された地であるからという説のほか、国府の支庁である別府が置かれて...
Read more本殿の裏の彼岸花土塁の桜(ソメイヨシノ)の木々がクビアカツヤカミキリの幼虫被害で大ピンチです! 来年(2026年)は咲かずにみんな枯れ木になってしまうかもしれません。熊谷市別府地区は、熊谷市内屈指の桜の名所、別府沼公園のクビアカ被害もひどいです。 クビアカの繁殖力を甘く見てはいけません。現地に注意喚起の看板をたくさん立てるなどしてもっと積極的に知らせ一般の人たちも巻き込んで駆除や対策をしないと、熊谷市や深谷市、行田市のソメイヨシノは全滅してしまう… 初秋は彼岸花(曼珠沙華)もきれいです。彼岸花保護のためにも土塁も除草をお願いします。 また、徒歩10分ほどのところにある別府沼公園にも川のような沼の南側の遊歩道にけっこう彼岸花(白も!)があるので、そち...
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