武蔵嵐山駅から菅谷館跡に向かう途中にある神社です。 広くて立派ですが、無人社です。 スギの木が植えられた参道を歩いていると、参道の左右にアスレチックがあり、神楽殿の前には椅子が並べられており、古き良き村の中心の神社とはこういう物だったのだなあと感慨深くなりました。 ただ、蚊の数が半端ではなく、スマホのカメラを構えると、腕や手に止まる数の多い事。 実に野趣あふれる神社でした。 これでは神楽殿で神楽を楽しんだり、子供がアスレチックを遊ぶこともままならないでしょう。
さて、武蔵嵐山というと菅谷館跡と畠山重忠という存在は切り離せないもので、当社は畠山重忠が日吉大社を勧請して建立した神社になります。
治承4年(1180年)、数え17歳で頼朝の下へ参陣した重忠は、源義経・範頼軍に従い、近江国へ進軍します。重忠ら鎌倉方は先に京都に入っていた源義仲と合戦をし、義仲は敗北しました。当社は近江国の日吉神社を勧請した物とされていますが、この時に戦勝祈願でもしたのかもしれませんね。 重忠は範頼に従って一ノ谷や屋島の戦いに参戦したとみられていますが、その後信用の足る資料での記載はなく、詳細は不明なようです。 いずれにせよ、元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平家は滅びました。
壇ノ浦の戦い以降、義経と頼朝の対立が表面化し、義経の舅である河越重頼は連座して誅殺されました。重頼の持っていた武蔵留守居所惣検校職は、同じ秩父平氏である重忠が継承しました。 文治3年(1187年)には、重忠は部下の代官が支配する伊勢国沼田御厨の不祥事で謀反の疑いを掛けられますが赦免され、文治5年(1189年)には、奥州征伐に参戦し戦功で僅かながら陸奥の国に土地を与えられます。 当社を建立した建久元年(1190年)には、頼朝が上洛した際は先陣を務めたそうです。ちょうど守護・地頭制を朝廷が認める直前であり、源頼朝が征夷大将軍に就任する直前の東国の武士に脂が乗り出した時期に当社は創建されたわけです。
さて、祭神の大山咋命(おおやまくいのみこと)は、日吉神社の祭神であります。大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、農耕・特に治水を司る神とされています。 また、保食命(うけもちのみこと)は食物の神であり、牛馬の神ともいわれています。 秩父山中において領地の繁栄を願い、武士にとっては戦道具である馬、農民にとっては農耕を助け、土を肥やす牛馬は大切な存在であります。当社には畠山重忠の領地を大切に思う気持ちが込められていると言えるでしょう。
[由緒] 祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと) 保食命(うけもちのみこと) 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
本社大山咋命は元日枝神社なり。是は畠山重忠 年17歳にして治承4年(1180年)10月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参じ、頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大いに軍功あって此の菅谷の地を賜り依って此れに新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社。この御分霊は日本国中即ち3府23県の内500社これありその1社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願により建久元年(1190年)9月19日に奉遷勧請す。ゆえに日吉山王大権現と称せしを明治4年(1871年)神社取り調べの節、村社に列せられ、社号を日枝神社と改称す。これより本社境内に須賀神社および秩父神社の2社ありしを以って左にに列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不肖なれども本村成立と同...
Read more菅谷公園と菅谷小学校の間にある神社。
参道は厳かな雰囲気。太く高い木が多く、長く大事にされてきたことがよく伝わってくる。 今でも祭日には催しが行われているようであり、参道から社殿まで提灯が下げられていた。
社殿は高い木に囲まれて薄暗く、落ち着いている。 訪れたのが朝だからかなんかしっとりしている。昼間でも暑くなりきらずに落ち着いて参拝できそうだ。 狛犬もいい雰囲気。
畠山重忠関連だったり、ウォーキングの途中に立ち寄ったりにい...
Read more畠山重忠縁の地にあり、畠山重忠を祀る神社です。鳥居前の道路をはさんで公園の池の中に厳島神社があります。北条氏に抹殺された後も祀る人々が居たため、今に残っ...
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