お城入口に駐車(4,5台)できます トイレはありません
入口の小屋にパンフレット、地図、杖、山蛭よけの塩水スプレーなどが用意されてます
お城内には案内板や叩いて音を出す熊よけの缶、急坂にはロープが設置されてます
4月2日に行きました 山蛭対策で虫除けスプレーを足まわりと腕などに吹いてから入りましたが、まだいませんでした 広いお城跡で、全部まわっておよそ100分でした 落ち葉が多く急坂があるのでトレッキングシューズがいいです 4月以降は山蛭がでるとのことですので虫除けスプレーは必須です 二の丸から連続空堀へ降りる急坂はロープがありますが杖があって良かったです
築城は1560年頃 安中忠政が武田信玄に備え改修したそうです その後、武田氏の攻撃を受け開城し武田氏のお城となりました 1582年3月武田氏は織田軍に攻められ勝頼が天目山で自刃し滅びます その後滝川一益の支配を受けますが、すぐに本能寺の変が起こり滝川は伊勢に撤兵 北条氏直が松井田城に入り大道寺政繁を城代とし ました この政繁が現在の遺構のようにお城を大改修したそうです 豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、そのまま廃城されたようです
これだけの空間にすっぽり遺構が残っていることに驚きました 見所はたくさんあります 北側の尾根筋の連続竪堀、二の丸下の連続土塁と空堀は畝がよくわかります! 大手の石積、二の丸と本丸を区切るダイナミックな大堀切、安中郭下の空堀とS字空堀など驚...
Read more現在の遺構は戦国時代末期の北条家臣、大道寺政繁の頃のもの。東西約1.5キロ、南北約1キロの範囲で、当時の東山道は城址の北側、高梨子の側を通っていた。国道を挟んだ南にある補陀寺は大道寺政繁の屋敷跡で、大道寺政繁の墓が建っている。かつては補陀寺曲輪と本城とは尾根続きだったが国道18号が城址を削って通された。本丸の西に三の丸があり、斜面下には連続畝掘という特徴ある遺構が残る。この畝掘の直下がおばけトンネルで現在は立入禁止。城が広く入り組んでおり、地権者が多いため整備は進む気配なし。火山灰地層で崩れやすいため、碓氷郡の城址は表面を厚さ数十センチの粘土質な土で固められている。遺構が削られた部分はコンクリートで固めてあるか、サラサラの砂っぽい地面が顕れている。安中氏時代の城址は大道寺氏時代の遺構の一部に組み込まれ、安中曲輪と呼ばれる。城の東の道路を挟んで東側の山には浅間出丸があり、城の西側の高圧鉄塔の土台あたりには松井田西城という別の城址がある。歩いていると時々穴に足を取られそうになるが、これは山芋や花の球根を掘った跡だと...
Read more松井田城は、安中氏が築城したと言われています。安中氏も新潟から移ってきた氏族といわれ、土着後、勢力を拡大し、いまでも安中市の地名で残っています。安中氏は、もともとは安中市原市を拠点としており、松井田城築城ののち安中忠政の代に安中城築城後、安中城を息子忠成に守備させますが、武田信玄の侵攻により落城します。以降、安中氏は武田氏支配下となりますが、長篠の合戦で被害を受け、表舞台からは姿を消します。 武田氏に代わり北条氏が勢力を拡大し、武田氏滅亡の際には北条氏のご由緒家の一つの当主、大道寺政繁が先鋒として侵攻し、長野の小諸城主となりますが、天正壬午の乱以降、徳川氏との支配領域の確定、北条氏の勢力は、長野から撤退し、松井田が最前線となります。松井田城の拡張はこの頃と言われており、現在の城跡の最終形となります。 その後、豊臣秀吉の小田原征伐にともない前田利家、上杉景勝ら北国勢の侵攻により落城します。この時、攻城戦は1か月かかったようで、その後、侵攻に大きな影響を及ぼすこととなり、豊臣秀吉の怒り...
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