祝 国史跡!! 国の文化審議会は20日、江戸時代に整備された五街道の一つ「中山道」のうち安中市松井田町(坂本宿の西側)から長野県までの街道と、道沿いに残る「碓氷関所跡」などの遺跡を、国史跡に追加指定するよう文科大臣に答申した。中山道は岐阜、長野両県ではすでに指定されているが関東では初めて。12月21日上毛新聞が伝えている。
碓氷関所は1623年、江戸幕府により設置された。中山道は幹線道路で特に重要であったため、幕府は関東出入国の関門として、箱根、福島等と並んで、「入り鉄砲に出女」を厳しく監視したのは有名。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていたとのこと。恥ずかしながら初めて知りました。 廃止は1869年(明治2年)太政官布告により他の関所と共に廃止された。 1955年(昭和30年)群馬県指定文化財に指定。1959年、柱や門など当時の部材を使って東門が復元された。ただ当時の場所ではなく、番所の跡に復元された。また碓氷関資料館も建設された。当時の関所の建物は存在しない。先ず、思ったより町中にあったんですね。もっと山の方にあったと思っていました。取り調べは厳しかったと聞いていますが、のっぴきならない用事ができた者、駆け落ち同然の男女のカップル等、通行札(通行許可証)ない人もたくさん居たでしょうから、それを考えると心が沈みます。国道18号線横川交差点の手前高崎方面寄りの場所に(関所破り者の碑)があります。周りは竹藪に囲まれ、行くのに難儀する場所にそれはあります。説明板には当時の群馬県知事の小寺氏の文があります。「全国の関所破り者の霊を弔う」とあります。行く手を阻む竹を端に除けたら、帰ってきた枝で頬を打たれました。暗澹たる気持ちになってしまいました。 話は変わりますが、江戸に向かった皇女和宮様の行列は一体、どうやって碓氷峠を越えたのでしょうか?京都方一万人、江戸お迎え方一万五千人、人足四千人、ほぼ三万人の大集団、列にすると50kmに及ぶらしい。 和宮様は確か籠に乗っていたはず。今でさえ急勾配の碓氷峠を越えるのはかなり大変だったはず。本当なら中山道ではなく、東海道を使えば良かったのでしょうが、皇女奪還を叫ぶ尊王攘夷派の存在、大井川だっけかな、洪水等で通行できなくなること考慮して中山道になったらしいです。晴れた青空、雲を見上げていると時空を超えて遥か昔にワー...
Read more国道や鉄道が通り、高速道路サービスエリアが山の中に在る現在、何で此処に関所?と思っていましたが、川・道路・線路が集まっているという事はそれだけ狭谷地帯だったと想像できます。 試しに霧積川対岸の『麻苧の滝』へ行ってみましたけど、関所を避けこの辺りを迂回しようとしても無理!更に関所から北側の山の中をバイクで走ってみましたが思った以上に山深く、道路もありません。(逆に考えれば良く横川SA造ったもんだ) 佐久市浅科に桜の銘木『関所破りの桜』が在りますが、その破られた『関所』がこの『碓氷関所』です。 佐久から米を運んだ農民が、帰り道に桜の苗木を手に入れ、帰路を急いでいたのですが、何らかの理由で『下仁田。西牧関所』を通る事が出来ず急遽『碓氷関所』廻りを選んだのですが、『碓氷関所』の通行手形を持っていなかった為本来ならば通過できないのですが『市川五郎兵衛』の元へ苗木を届ける途中と聞いた『関所奉行』は見て見ぬ振りをして通過させたと伝わっています。 (現在ならば職務怠慢を問われますけど) 『市川五郎兵衛』さんは佐久の地に広大な農耕地を造る為に尽力した上州人。其の功績は知れ渡っていました。 お陰で『桜の苗木』は枯れる事無く浅科に根付き、春には見事な桜を咲かせています。 関所から坂道を上る事5分。八幡稲荷の祠に辿り着きます。 碓氷川対岸に聳える『御嶽』や『碓氷鉄道文化むら』の展示車両なども手に取るように望めます。 『釜めし屋さん』は有名ですが、お時間あれば是非とも訪れてみて下さい。 附近に駐車場は在りません『...
Read moreThis gate was where government guards checked the wives of feudal lords who were hostages of the shogunate in Edo and those who wanted to bring guns into the city. Locals say it is a...
Read more