辛亥革命により、清朝を打倒し中華民国を建国した、”革命家”孫文(中山)と親交を結び支援した宮崎滔天と、彼の三人の兄弟の業績を記念して、荒尾市が生家を買い取って展示施設としたものです。 希代の革命家と親交を結び、専制王朝から共和制への歴史的転換を成し遂げる支えとなった滔天と、幕末から明治の時代に、国内に留まらずアジアまで俯瞰しつつ、早世した彼の兄弟達の事績を、豊富な展示史料で知ることができます。 個人に関する資料展示施設とはいえ、所蔵の展示品や資料は思いのほか多岐にわたり、30分あれば十分見て回れると高をくくっていましたが、嬉しい誤算でした。 資料館の職員さんも、閉館時間が迫る中、懇切丁寧な案内をして下さって、非常に感謝しています。 また、築250年を超える民家が保存されていて、しかも展示施設として活用されているのも、稀有な例ではないでしょうか。 期待以上の展示内容の充実度と、建物の良好な保全状態に加えて、職員の方の応対も素晴らしかったので、最高評価でも足らな...
Read more明治維新の頃、自由民権運動が起こり、西欧列強からアジアを解放という、国粋思想や日本という国の枠を越えた志を遂げることに人生を捧げた歴史上の人物です。宮崎八郎、民蔵、彌蔵、滔天の宮崎兄弟は、1851(嘉永4)年に生まれた八郎は自由民権運動家で、熊本に、自由民権を唱える「植木学校」を設立。しかし、1877年に勃発した日本最大で最後の内戦と呼ばれる士族反乱「西南戦争」において、熊本協同隊を結成して薩摩軍に参加し戦死してしまいました。この八郎の思想が、弟たちである民蔵、彌蔵、滔天の人生に大きな影響を与えたと言われています。...
Read moreここは、宮崎寅蔵(滔天).、民蔵、彌蔵、八郎の四兄弟が育って、活躍した場所です。滔天は、大江義塾から早稲田さらに長崎カブリ校と遍歴し、彌蔵の説く革命的アジア主義に共感し、上海に渡ります。その後理想を同じくする孫文に出合い、宮崎家に招きます。その後の孫文の辛亥革命に大きな影響を与えます。宮崎家当主の民蔵は、農村の貧しさを見て土地制度に疑問を持ち、土地復権を生涯の使命としました。彌蔵は、中国を本拠地とした革命を起こし理想郷を創るべく、中国人になり活動しますが、29歳でなくなります。八郎は自由民権思想を掲げ植木学校を設立しますが、県の反対にあい閉校し、民権党の同士と西郷の西南戦争に参加し、27歳で戦死します。 なお伊藤伝右衛門の妻白蓮と駆落ちする...
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