【当社】(コクオウジンジャ)は、桓武平氏の主流でありながら朝廷に反旗を掲げて蜂起せざるを得なかった「平将門(タイラノマサカド)」を御祭神する。 【所在地】は、 茨城県坂東市岩井951(〒306-0631)である。 【祭神】は、「平将門命(タイラノマサカドノミコト)」である。かの「平将門の乱」の中心人物である。 【源平】承平天慶(ジョウヘイテンギョウ)の乱は、ただの反乱ではなく「日本の律令国家衰退」と「武士のおこり」を象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。 【由緒】月日は流れ、将門の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきました。それは、奥州・慧日寺に逃れていた、将門の三女「如蔵尼」でした。 奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、あるとき悪夢を得て、急いで下総に帰郷すると、村人に父の最期の地を尋ねたのです。 熾烈な残党狩りの記憶から、口を閉ざしていた村人たちでしたが、尼僧が将門の縁者だと分かると、将門が辿り着いた最期の地、現在の國王神社へと案内したのでした。 如蔵尼はこの場所で、傍らの林の中より怪木を見つけると、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。 そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。 天下泰平、国家安全を祈願して伝えたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。 【如蔵尼】は、追ってから逃れて陸奥国磐梯の「慧日寺(エニチジ)」に庵を結び世を避けて、地蔵菩薩を深く帰依して父将門の霊をともらった。 ある日病気となり死ぬと地獄に落ちたが、地蔵菩薩に助けられて生き返った。地蔵菩薩の大慈大悲に感謝して、名前を如蔵尼と改めて地蔵を持した。 【瀧夜叉姫】は、『元亨釈書(ゲンコウシャクショ)』に記されている平将門の娘・如蔵尼をモデルに、山東京伝(サントウキョウデン)が読本『善知安方忠義伝...
Read more茅葺きで趣のある神社です。 平将門公・終焉の地に静かに佇んでいます。
創建は将門公の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが國王神社の創建とのことです。
天慶三年(940)二月十四日、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構えた将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。
将門公の四百騎は、三千騎の敵軍に対して追い風を得て、当初は敵を圧倒しますが、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。
地元の言い伝えによれば、首を取られた将門公の身体は馬に乗せられ、のちに國王神社となるこの場所に辿り着いたのでした。
月日は流れ、将門公の最期から三十二年が過ぎたあるとき一人の尼僧が石井郷を訪ねてきました。 奥州・慧日寺に逃れていた将門公の三女・如蔵尼です。 奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、ある日悪夢を得て急いで下総に帰郷し、村人に父の最期の地を尋ねました。 熾烈な残党狩りの記憶があった村人たちでしたが、尼僧が将門公の縁者だと分かると、将門公が辿り着いた最期の地・現在の國王神社の場所に案内したのでした。
如蔵尼は、この場所で傍らの林の中より怪木を見つけ、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。 そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。
天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠が現在の國王神社です。 以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。
文化財的には社殿と御神体の将門公像が県の指定文化財になっています。
社殿は前面に入母屋造の拝殿、中間に幣殿、その後方に一間社流造の本殿を配し、この三棟を茅葺き屋根が結んでいます。権現造の変化した形式です。
拝殿は古代から中世期の建築様式ですが、建立は江戸中期。本殿は文化14年(1813年)の再建といわれます。
駐車場🅿が無い?分かりにくいので注意してください。
御朱印も基本的に無人社のため平時の御朱印対応はなく正月三が日、将門まつりの際に対応可能な時のみ...
Read more平将門公の終焉の地とされる地に建立された神社です。小さな神社で辺鄙な場所にあり(失礼!)社格としては「村社」に過ぎないのですが、将門公を慕う参拝者が次から次へと現れて驚きました。この規模の神社としては稀有の事です。
そして社殿がまた美しい、これだけでも見に来る価値があるかも(笑)。 屋根が茅葺というだけでも珍しいのですが、正面の拝殿、奥の本殿とそれを繋ぐ幣殿の屋根が一体となって有機的に連結し、全体が優美な曲線で構成されているのですよ(写真参照)。 質素で鄙びていながらも力強さも併せ持ち、どこか生前の将門公の姿と重なります。
将門公は平安時代の勃興期の「武士」ですが、実態は「開発農民」で警察など存在しない当時、権利の自衛のため武装化したものでした。 ちなみに律令国家では土地は全て公有で、いくら苦労して開拓しても自分の物になることはありません。そして強欲な中央政府は難癖をつけては開発した土地を巻き上げようとし続けたのです。
「開発した土地は開発した者の所有へ」は全ての農民達の願いでしたが、その矛盾の解決のために立ち上がった先駆者がまさしく将門公だったのです! その手段は関東を京都から独立した「国家」とし、将門公が「新皇」として農民による農民のための政治を行う事でした。 しかしこの方式は中央政府からの反発が大きく、十分な運営の準備が整う前に潰されてしまいます。
しかし将門公の理想は潰えず後世の源頼朝へと引き継がれていきます。彼は先駆者の将門公の失敗に学んだからこそ、あれほど上手く朝廷をあしらい「幕府」という形(本来は将軍に現地での行政権・軍事権を全面委任するもので、これこそ将門公が欲しかったもの)で農民の権利を認めさせることに成功したと言えるでしょう。
それにしても当時の関東の人々にとって、自分達のために立ち上がってくれた将門公は、どれほど輝いて見えた事でしょうか。それは圧政と闘う「ロビン・フッド」、あるいは理想に身を捧げた「チェ・ゲバラ」のような解放者・救世主として写ったことは間違いありません。 その時の人々の強い感激や喜びが今に至るまで残り、伝えられ「神社」という形で表現されているのはなんだか不思議...
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