須須岐水神社(すすきみずじんじゃ) 旧北国街道沿い矢代宿の中央に位置する産土の鎮守社。式外社須々岐水神社の比定社で旧社格は旧郷社。
御祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)・生魂命(いくむすびのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)
相殿の左に四柱と右に三柱の祭神 岡象女命(みづはのめのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)・速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・保食命(うけもちのみこと)・国常立尊(くにのとこたちのみこと)
由緒:創建は不明だが白鳳2年(673)が起こりとも伝わる。当初は式内社の「祝(ほおり)神社」と称し近隣の一重山の腰惣に創建されていたが、貞観年間(859-877)千曲川の氾濫の被害を受け、近江の国比叡山日吉社から大国主命=山王権現を勧請し祝神社を相殿とし合祀、名を山王宮、又は山王大権現宮とも称していた。 慶長16年(1611)北国街道及び谷街道の伝馬宿として矢代宿が成立し、正保二年(1645)に現在地へ鎮座。以後、近辺十八郷に灌漑生活用水を供する屋代用水の守護神となっている。 寛延四年(1751)波布離(はふり[祝])神の称を松代に譲り、安永十年(1781)現名の須須岐水神社と改称する。嘉永4年(1851)宮大工の立川和四郎富昌により再建。明治十四年(1881)六月には社に列せられ、また明治末年などには境内社を並置した。
さて、北上する千曲川が右岸に大きく流れを変えるこの地は、古くから洪水に苛まれていたが、埴科古墳群にみられるように古墳時代の遺跡が多いことから、ここ一帯は科野(信濃)の中心であり、多くの暮らしが古来より存在していたことが伺える。 また、縁起の中に記される「白鳳2年(673)」という私年号は、まさに飛鳥時代の直前、古墳時代の最終盤期でもあり、北信地区の多くの神社縁起で見受けられる。つまりは、大和からの部族の移住し、実質的な統治者の交代が勧請のきっかけとなっていると推察される。
創建からの歴史には謎が多いが、この地の北となる矢代の渡し附近は、北国街道、谷街道(北国街道東脇道)、善光寺西街道が交差しており、なおかつ千曲川通船の終点がここであったことから、古くから日本海側からの物流の要衝であった。農業用水、船場という立地からも、こちらの神社が「水神」と祀られている由縁が垣間見れる。
同市雨宮にある雨宮坐日吉神社との間を神輿が行き来する神事があったようだが、1872年(明治五年)...
Read more屋代周辺の北国街道を散策していると大きな鳥居が眼に止まりました。鳥居の写真を撮ろうと横断歩道を渡ったのですが、変則交差点で待ち時間が長く、かといって信号無視も出来ないし。 『須須岐水神社』の名前からも『水』に関する神社の様です。 鳥居を潜ると拝殿は新し目です。やはり火災により焼失し建て直した模様です。摂社も水に関する神様が多く、千曲川の氾濫地点でもあったのでしょうか。 境内には養蚕の神なども祀られ、旧北国街道を行き来する人の参詣...
Read more須須岐水神社
すすきみずじんじゃ
長野県千曲市屋代1851
祭神
大国主大神
貞観年間に千曲川の洪水を受けて 近江国の日吉大社を 勧請し洪水難の除災を 祈願したという
古くは近くの 雨宮坐日吉神社との間で 神輿が行き来する神事があった らしいです ...
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