基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている。城郭の建設を担当したのはいずれも亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である。そして、『続日本紀』...
Read more100名城大野城と同時期に朝鮮半島からの渡来人の技術者により築かれた、古代朝鮮式山城です。 約1350年前、斉明天皇(皇極天皇の再即位)による百済への援軍が、白村江(はくそんこう又はくすきのえ)の戦いで唐に大敗を喫した為、急ぎ防衛施設が必要となりました。まず最初に築き上げたのが水城、博多湾と大宰府政庁の間、約1kmに渡って築かれた古代の土塁と水堀です。それでも恐怖心から築城されたのが、大野城と基肄城と言われています。
始めに水門跡を見に行きました。 次に草スキー場から登って、山頂の本丸?へ行きました。登っている途中、見上げると土塁らしきものが見え、テンションが上がりましたが登り結構キツい。到着すると、東側は開けていて太宰府の街が一望できます。大野城の半分位の規模かな?と思っていたら、一回り?か二回り?小さい位の規模かな?といったところで、意外と巨大山城です。 時間の都合で、大野城と同様あまり周れなかったのは残念でした。 続100名城スタンプ、車で約10分ほどの基山町役場に隣接...
Read more(2023.10.7)...
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