静岡と云ったら「磯自慢」、焼津市にあるその酒蔵が15時で閉まるので、遠回りだが先に磯自慢酒造とその親戚の酒屋に行って宅配の手配をしてから田中城跡へ来た。車は「田中城下屋敷」の駐車場へ停めた。田中城の史跡はこの下屋敷の公園内(入場無料)と街中に堀や土塁が残る程度である。街中は道が狭そうであったので、ここから歩いて田中城の痕跡を巡った。約1時間強掛ったが、冬だったのでそれほど疲れは感じなかった。 お勧め順路は、①田中城下屋敷から冠木門を出て目の前の六間川を渡り、②田中城土塁跡(Googleマップの表示名、以下同じ)、③田中城三日月堀跡(馬出曲輪)、④田中城本丸跡碑、⑤田中城二之門跡、⑥田中城二之堀、⑦田中城三日月堀跡(大手)、⑧田中城三之堀、⑨田中城三の丸土塁・家老屋敷跡、⑩平島一之門跡、⑪田中城三日月堀跡(平島)、⑫田中城三之堀・土塁跡で、ここから下屋敷へ戻る。
田中城は、今川氏の代に一色信茂(足利氏一族の一色氏との関係は不明)が築き、当初は徳一色[とくいっしき]城と呼ばれていたが、永禄13年(1570年)正月に武田信玄が攻略し、丸馬出の増設等改修を加えて田中城と改名した。城の縄張りは輪郭式の一変型としての円郭式で、全国的に珍しく大変興味があった。現地の狭い道路を歩いてみると、城郭縄張りの北半分(北半円)位のところは確かにその名残を感じられた。
尚、田中城と今NHK大河ドラマ「どうする家康」で注目の徳川家康とは、結構繋がる。武田氏との幾多の攻防戦以外に、「鯛の天ぷらの話」が興味深い。田中城は家康が駿府城へ移って以降、鷹狩の際よく訪れた城で、大阪夏の陣の翌年の元和2年(1616年)正月21日にも鷹狩で訪れた。その時、茶屋四郎次郎清次が京で流行の料理(鯛を胡麻油?[かやの油?]であげ、蒜[にんにく]を擦りかけた料理)を紹介し、その時丁度、榊原内記清久から久能で採れた鯛が献上されたので、家康がその調理を命じ、好んで多く食し、その夜腹痛と食あたりを起こした。そして、なんとこの約3ヵ月後、75歳の家康は駿府城で亡くなっている。死因はこの鯛の天ぷらの食中毒との説が長らく一般的であったが、現在では胃がん説が主流のようである。 因みに、現地で頂いた資料において、家康がこの鯛の天ぷら(正確には当時は“天ぷら”という表現はなく、“揚げもの”...
Read more☆一度は現地を訪問したかった「田中城」城郭構造が国内唯一の『円郭式(輪郭式平城)』、基本的縄張が武田家重臣の築城名手「馬場美濃守信春」の普請、興味津々❗️ 田中城の本丸跡・ニノ丸跡・三ノ丸跡には小学校と中学校が大部分を占め、周辺も市街地化、土塁や堀などの遺構が街中に分断散在、街中を散策すると道が本丸跡を中心に円心状に曲がっている事が良く分かって、道自体に田中城の往時の面影あり、何か面白い😄
今川氏・武田氏・徳川氏の激戦の地、今川氏の城を武田氏攻略後に武田氏重臣「馬場信春」普請し武田氏猛将「山県昌景」入城、徳川氏が最後まで力攻めで落とせなかった城、徳川家康が20回以上鷹狩りで訪れ生涯最後の鷹狩りを行った城、秀忠は7回&家光も4回逗留した田中城、少し地味でも重要な東海道の城郭🐎
今川氏の徳之一色城を武田氏攻略し、武田氏重臣で築城の名手「馬場美濃守信春」が徳之一色城の本丸方形郭を二重の堀で囲みニノ丸・三ノ丸を同心円上に円形に縄張、特質すべきは二ノ丸の南北の城門に丸馬出、三ノ丸にも東西南北の城門に丸馬出を設ける、何と6ヶ所の丸馬出、攻撃的であり防御力強固、「山県昌景」入城し遠江侵攻の拠点、武田氏滅亡後は徳川氏の城に、徳川家康関東移封後、一時期は豊臣秀吉側近「中村一氏」の管理下、江戸時代になり譜代大名「酒井備後守忠利」が入封し四重目外堀と外曲輪の侍屋敷...
Read moreAh this one place for me seriously was not easy to find or get from the train station... when I went over there and construction boss' employee got me close to where I was...
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