徒歩で藤井寺駅から約20分 大和川 大正橋から だと10分程の所にあります 奈良盆地南東から北部 佐紀盾列古墳群を経て巨大古墳の中心が大阪平野に移り 古市古墳群中 初期(4世紀後半)に築造され最も北に位置する津堂城山古墳 かつて あった複数の周濠や堤は5世紀以降の大王墳の基本形態の"走り"とされていますが 中世 古くは南北朝時代に南朝の城として戦国時代前期には畠山義就の重臣 安見清時 以後 安見氏の居城として 築城時に削平され 正直 今に至る大型前方後円墳のイメージはなく 明治初期には陵墓の選定考証 治定が行われ 明治20年頃には陵墓が定まったのですが 当古墳は認められずじまい 明治42年 神社合祀政策により産土(うぶすな)神社に合祀 廃社となった後円部西側にある現:津堂八幡神社(昭和25年復元遷宮)の石碑を建てる為 村人の多くが知っていた後円部に埋まった石材を利用しようとして掘り出したところ 巨大で上面に格子状の彫り込みのある精巧な長持型石棺を発見(明治45年)他 副葬品も多数 出土したという事で その後 宮内庁治定「藤井寺陵墓参考地」とされました 被葬者は 允恭天皇 日本武尊 仲哀天皇 品陀真若王(3人の娘を応神天皇の妃とした)と色々言われております 治定が遅れた分?立入禁止は後円部のみで 東側は頭頂近くまで登れます 間近に見て身体で感じる事の出来る古墳 域内周辺は児童公園あり季節の草花ありで緑の公園として近隣の方々に親しまれてるみたいです どことなく 同じ古市古墳群の仲津山古墳拝所 向かいの古室山古墳に似ています
古墳北側「まほらしろやま」にて 出土品の展示・...
Read more陵墓参考地なのに登れるん?やったーと思って訪れるとやっぱり後円部の頂上だけ柵に囲まれていました。 現実はそんなに甘くないか… 津堂城山古墳は古市古墳群の中で最古の大型前方後円墳で、その規模は、墳丘長210m、後円部直径128m、前方部幅122m、二重の堀と堤を持ち(埋没)、合計面積は147000平方メートルもあります(東京ドーム3個とちょっと分)。室町時代に墳丘に城が建っていたので墳丘の損傷は大きいです。しかも登れるのでそれも理由の一つかと思います。 そして何より有名なのが埋葬施設と島状遺構です。まず埋葬施設は、まだ宮内庁が立ち入りを禁止していなかった1912年に地元の人々によって掘り起こされ、竪穴式石槨の中から立派な長持形石棺が発見されました。石棺内部には18㍑もの朱が使用されていました。また、副葬品はその時に地元の人々が取り上げてしまっています。 島状遺構は、1983年の藤井寺市の調査で堀内から見つかった一辺17m、高さ1.5mの四角形の遺構の事です。ここから三体の水鳥形埴輪が見つかり、重要文化財に指定されています。 現在はそれらは埋まっており、長持型石棺は本古墳の北西すぐにある「まほらしろやま」でレプリカを見る事ができ、島状遺構はそれがあった場所に説明板...
Read more大阪府藤井寺市にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定されている。また国の史跡に指定されている。前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。墳丘長202mは全国でも32番目の大きさ。これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。駐車場はないので、車で行く場合は東南あたりのコイ...
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