伊勢松坂藩から国替えになった古田重治が築城した浜田城。浜田の城と町を造ったのは古田重治であるが、甥の重恒に跡を継がせたが、重恒に子がなく、無子断絶となり、浜田藩古田家は改易となった。その後、松平周防守家(松井松平)、本多家、松平右近将監家(越智松平)が浜田藩に入り明治を迎えたが、12代藩主松平康定公が将軍の代参で伊勢神宮に詣でた際、松坂に立ち寄り、本居宣長大人に源氏物語などの講義を受けた。康定公は宣長大人への土産に隠岐の「駅鈴」の写しを持ってきたのである。 現在、三重県松阪市ではこの駅鈴が市のシンボルになっており、松阪駅前では、大きな駅鈴のオブジェが皆様方をお迎えしている。 この駅鈴と、浜田の初代城主古田重治が松阪から移封した縁で、松阪と浜田に友好の会が立ち上がり、松阪市と浜田市も友好都市になり、毎年5月には浜田から「石見神楽」の団体が来松し、市民文化会館で石見神楽を上演してくれる関係となっている。1300人も入る会館も満杯になるぐらい、毎年、松阪市民は上演を待っている。 浜田城跡は市民公園になっており、浜田護国神社も城跡内にある。天守があった本丸に上がると日本海の絶景があなたを待っている。 浜田城跡は昨年、続1...
Read more浜田城(はまだじょう)は、石見国浜田(現:島根県浜田市殿町)に存在した日本の城。江戸時代には浜田藩の藩庁が置かれていた。
浜田市中心部にある浜田川に囲まれた標高68メートルの独立式丘陵に築城された。この丘陵は別名、亀山と呼ばれている。本丸の下に狭い二の丸・三の丸・出丸が配されている。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川によって天然の掘割としていた。 浜田城を藩庁とした浜田藩は最初の藩主・古田氏以外は譜代・親藩が入れ替わり治め、長州藩に対する山陰側の押さえの最前線とされた。
建物は長州征伐で長州藩軍に攻められた際に(当時の浜田藩主は松平武聡)、城を捨てて藩兵が火を放ち殆どが焼失した。
現在は城山公園として、本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残り、登城口に津和野藩武家屋敷より移築された門がある。ただし、往時此処には門は存在していない。また、登城口には小説家司馬遼太郎の碑文「...
Read more神社に停車して訪れました。 以下ホームページより
浜田城(はまだじょう/島根県浜田市)
古田重治が元和6年(1620)より築城を行い、その後約250年の間、浜田藩の政庁となった。しかし慶応2年(1866)、第二次幕長戦争の際、長州藩の大村益次郎に追い詰められ落城。藩兵が自ら火をつけ退城したため天守以外のほとんどの建造物が焼失、天守も明治期に失われた。現在は石垣だけが残り、桜の名所として市民の憩いの場となっている。2017年には続日本100名城にも選ばれた。 第二次幕長戦争(長州征討)で落城し約250年の歴史に終止符が打たれた
浜田城は標高67mの丘陵に築かれ、北側は日本海に通じる松原湾に接し、南側と西側には浜田川が流れる。海を意識して選地された浜田城からは、往時、北前船が行き来する浜田藩最大の湊である外ノ浦が眼下に望め、また海上からは天守となる重厚な三重櫓...
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