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Iinoya-gū — Attraction in Hamamatsu

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Iinoya-gū
Description
Nearby attractions
Gardens of Ryōtanji
1989 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Tenpaku-Iwakura Ruins
1151-177 Inasacho Iinoya, 北区 Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Nearby restaurants
昌盛龍
371 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Toen Inasa
2101-1 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
一番やず屋
3133-6 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Wakana Sushi
565-7 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Nearby local services
Iinoya-gū
1991-1 Inasacho Iinoya, 北区 Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Ryotanji
1989 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Ryōtanji Souvenir Shop
1903-2 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Ii Shrine
1150 Inasacho Iinoya, 北区 Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
Iinoya Castle Ruins
306 Inasacho Iinoya, 北区 Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
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Iinoya-gū tourism.Iinoya-gū hotels.Iinoya-gū bed and breakfast. flights to Iinoya-gū.Iinoya-gū attractions.Iinoya-gū restaurants.Iinoya-gū local services.Iinoya-gū travel.Iinoya-gū travel guide.Iinoya-gū travel blog.Iinoya-gū pictures.Iinoya-gū photos.Iinoya-gū travel tips.Iinoya-gū maps.Iinoya-gū things to do.
Iinoya-gū things to do, attractions, restaurants, events info and trip planning
Iinoya-gū
JapanShizuoka PrefectureHamamatsuIinoya-gū

Basic Info

Iinoya-gū

1991-1 Inasacho Iinoya, Hamana Ward, Hamamatsu, Shizuoka 431-2212, Japan
4.3(426)
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Ratings & Description

Info

attractions: Gardens of Ryōtanji, Tenpaku-Iwakura Ruins, restaurants: 昌盛龍, Toen Inasa, 一番やず屋, Wakana Sushi, local businesses: Iinoya-gū, Ryotanji, Ryōtanji Souvenir Shop, Ii Shrine, Iinoya Castle Ruins
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+81 53-542-0355
Website
iinoyaguu.or.jp
Open hoursSee all hours
Tue9 AM - 4:30 PMClosed

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Reviews

Nearby attractions of Iinoya-gū

Gardens of Ryōtanji

Tenpaku-Iwakura Ruins

Gardens of Ryōtanji

Gardens of Ryōtanji

4.5

(64)

Closed
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Tenpaku-Iwakura Ruins

Tenpaku-Iwakura Ruins

4.4

(110)

Open until 12:00 AM
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Nearby restaurants of Iinoya-gū

昌盛龍

Toen Inasa

一番やず屋

Wakana Sushi

昌盛龍

昌盛龍

3.8

(87)

Open until 12:00 AM
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Toen Inasa

Toen Inasa

3.8

(57)

Open until 12:00 AM
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一番やず屋

一番やず屋

3.4

(74)

Closed
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Wakana Sushi

Wakana Sushi

3.7

(2)

Open until 12:00 AM
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Nearby local services of Iinoya-gū

Iinoya-gū

Ryotanji

Ryōtanji Souvenir Shop

Ii Shrine

Iinoya Castle Ruins

Iinoya-gū

Iinoya-gū

4.3

(340)

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Ryotanji

Ryotanji

4.3

(954)

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Ryōtanji Souvenir Shop

Ryōtanji Souvenir Shop

3.2

(21)

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Ii Shrine

Ii Shrine

4.2

(67)

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Reviews of Iinoya-gū

4.3
(426)
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5.0
2y

井伊谷宮の御祭神は宗良親王です。

応長元年(1311年)に生まれ、元徳2年(1330年)に比叡山延暦寺の貫主である天台座主(第120世)に任じられました。父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒幕後、南北朝が対立すると、還俗し南朝方として活躍しました。延元3年(1338年)、伊勢から陸奥に渡る際に座礁して井伊谷のもとに身を寄せ、信濃、上野、越後、美濃などに軍を進めました。晩年にこの地を訪れ、元中2年(1385年)に薨去されました。

明治元年、明治天皇より井伊谷宮創立の勅旨が出され、明治5年に鎮座されました。社の裏手に宗良親王の御墓があります。

また、ここは井伊氏発祥の地。鎌倉時代には井伊介(いいのすけ)を名乗って幕府に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子宗良親王について挙兵するも、建武4年(1337年)に北朝方、駿河の今川氏に敗北し、今川氏の軍門に降ったといいます。

永禄3年(1560年)、今川義元は駿河、遠江に加え、三河を治めるために尾張国へ大軍を動員した際、その先陣として井伊直盛を任命した。しかし、桶狭間で休息中に織田信長本隊に攻められ、今川義元とともに井伊直盛は討死し、その亡骸は井伊谷宮の隣の龍潭寺に葬られたといいます。

直盛の息子、井伊直親が謀反の嫌疑で主君の今川氏に殺され、大河ドラマ『おんな城主直虎』で取り上げられた井伊直虎が当主となりました。直親の遺児、井伊直虎は永禄11年(1568年)の駿河侵攻で今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、天正10年(1582年)の本能寺の変に際しての伊賀越えに同行、その2年後の小牧長久手の戦いではその勇猛さから『井伊の赤鬼』と恐れられ、天正18年(1590年)の小田原攻めでは数多の武将の中で唯一夜襲をしかけて小田原城内まで攻め込んだといわれます。数々の戦功により、関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、東軍指揮の中心となり、敵方の大名を仲間に引き入れたり、勇猛に戦ったりと武功をあげ、戦後処理も和平交渉を行ない、家康の信任を得て徳川四天王の一人となりました。これらの功により、近江国佐和山を任され、彦根城の築城が始まりましたが、その途中の慶長7年(1602年)に42歳で死去。彦根城完成後、彦根藩が置かれ、以来、廃藩置県まで井伊氏の藩となりました。

井伊直弼は文化12年(1815年)に生まれ、江戸幕府大老を務め、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、日本の開国へと導きました。しかし、朝廷の許可を得ずに開国した経緯から、朝廷から説明を求められました。これに対する直弼の対応に不満を募らせた志士たちは朝廷に働きかけ、孝明天皇が幕府を非難。この前代未聞の朝廷による政治関与に直弼は厳しい態度で取り調べを進め、多数の志士を捕縛し、静粛しました。しかし、このことは尊王攘夷派から反感を買い、安政7年(1860年)桜田門外にて直弼は首を刎ねられました。

井伊直弼自身、本来は鎖国論者とも言われています。嘉永6年(1853年)の黒船来航の際に幕府に出した一度目の意見書では鎖国継続を主張、二度目の意見書では積極的な交易と開国を主張していますが、後半部分では「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記されているためです。また、勅許を得られないで条約に調印することに対して否定的で、事態がそうなってしまった際、直弼は大老辞職の意思があったといいます。

歴史がい...

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4.0
3y

井伊谷城跡及び周辺の史跡を巡って、次の目的は龍潭寺と井伊谷宮である。今、午後3時近い。龍潭寺の駐車場は午後4:30で閉鎖される。時間制限のない井伊谷宮の駐車場に車を停めて見学することにした。井伊谷宮と龍潭寺は奥の宗良親王墓の方で繋がっていて見学の便は良い。

さて、宗良[むねなが]親王を御祭神とする井伊谷宮だが、創建は明治天皇により明治5(1872)年、そして翌年旧官幣中社に列せられた。宗良親王が薨去されたのが元中元(1385)年であるから、実に487年後となる。なぜこんなに後にと不思議だが、これには武家と朝廷との国家権力の争奪戦の決着が見て取れる。 日本は元々平安時代までは朝廷(天皇)支配であった。それが源頼朝に始まる鎌倉幕府と後白河・後鳥羽上皇の権力争いの結果、朝廷が敗れ武家政治が確立した。その後、鎌倉幕府は乱れ、後醍醐天皇が朝廷政治を復活(建武の中興)したが僅か2年で瓦解、南北朝時代となった。南北朝時代は結局足利尊氏の傀儡であった北朝方が勝利し、再び武家政治の足利幕府が成立した。 この南北朝時代に後醍醐天皇の第四皇子宗良親王は、井伊谷に東征将軍として下り、北朝方と遠江・駿府をはじめ信濃・甲斐・越後等各地で激闘を繰り返したが敗れ、井伊谷に戻り前述の通り元中元(1385)年に薨去した。 その後、室町時代、(戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代と武家政治を経て、再び朝廷政治(薩長武家の傀儡的なイメージもある)が復活(王政復古)したのである。つまり朝廷は487年間悶々としていて、明治維新によってやっと過去の雪辱を果たしたのである。だから、この明治の初めに、487年前に朝廷政治実現のために命を捧げた皇子をはじめ所縁の人々(武家も含む)を御祭神とする神社を創建したのである。

因みに、この時、建武の中興関連で15社創建されている。有名な宗良親王の兄護良[もりなが]親王を御祭神とする鎌倉宮もこの時創建された。新田義貞を御祭神とする藤島神社、楠木正成を御祭神とする湊川神社なども同様である。

尚、井伊谷宮境内には摂社として井伊社がある。こちらも見学すれば更に宗良親王と井伊氏の関係が深く理解できるのでお奨めである。

また、井伊谷には、二宮神社というのがあり、ここにも宗良親王が祀られている。こちらは宗良親王が薨去した元中元(1385)年からであり、こちらの方がずっと歴史は古く、価値があるのではないか。...

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5.0
5y

後醍醐天皇の第四皇子で、方広寺を開いた無文禅師の兄にあたる宗良(むねなが)親王を祭神として祀る神社です。

後醍醐天皇の命により征東将軍に任ぜられ、伊勢の大湊から船出した親王は、遠州灘で嵐に遭い浜松市の白羽湊に漂着した後、井伊家に迎えられて井伊谷城に入りました。以後北朝方との戦いを重ねましたが、三岳城、大平城と落とされて遠江の南朝勢力は滅びました。その後、親王は遠く新潟方面まで流浪した末、72歳で没したと言われています。

明治5年、明治天皇の思し召しにより宗良親王を祀る井伊谷宮が創建され、翌年には県内二番目という格式高い神社となりました。文武に秀でた親王の御利益として「学徳成就・合格・長寿・除災開運・道開き・交通安全」などがあるそうです。拝殿左側から奥に進むと京の都方向を向いた宗良親王の墓所があります。

NHK大河ドラマ「おんな城主...

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井伊谷宮の御祭神は宗良親王です。 応長元年(1311年)に生まれ、元徳2年(1330年)に比叡山延暦寺の貫主である天台座主(第120世)に任じられました。父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒幕後、南北朝が対立すると、還俗し南朝方として活躍しました。延元3年(1338年)、伊勢から陸奥に渡る際に座礁して井伊谷のもとに身を寄せ、信濃、上野、越後、美濃などに軍を進めました。晩年にこの地を訪れ、元中2年(1385年)に薨去されました。 明治元年、明治天皇より井伊谷宮創立の勅旨が出され、明治5年に鎮座されました。社の裏手に宗良親王の御墓があります。 また、ここは井伊氏発祥の地。鎌倉時代には井伊介(いいのすけ)を名乗って幕府に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子宗良親王について挙兵するも、建武4年(1337年)に北朝方、駿河の今川氏に敗北し、今川氏の軍門に降ったといいます。 永禄3年(1560年)、今川義元は駿河、遠江に加え、三河を治めるために尾張国へ大軍を動員した際、その先陣として井伊直盛を任命した。しかし、桶狭間で休息中に織田信長本隊に攻められ、今川義元とともに井伊直盛は討死し、その亡骸は井伊谷宮の隣の龍潭寺に葬られたといいます。 直盛の息子、井伊直親が謀反の嫌疑で主君の今川氏に殺され、大河ドラマ『おんな城主直虎』で取り上げられた井伊直虎が当主となりました。直親の遺児、井伊直虎は永禄11年(1568年)の駿河侵攻で今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、天正10年(1582年)の本能寺の変に際しての伊賀越えに同行、その2年後の小牧長久手の戦いではその勇猛さから『井伊の赤鬼』と恐れられ、天正18年(1590年)の小田原攻めでは数多の武将の中で唯一夜襲をしかけて小田原城内まで攻め込んだといわれます。数々の戦功により、関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、東軍指揮の中心となり、敵方の大名を仲間に引き入れたり、勇猛に戦ったりと武功をあげ、戦後処理も和平交渉を行ない、家康の信任を得て徳川四天王の一人となりました。これらの功により、近江国佐和山を任され、彦根城の築城が始まりましたが、その途中の慶長7年(1602年)に42歳で死去。彦根城完成後、彦根藩が置かれ、以来、廃藩置県まで井伊氏の藩となりました。 井伊直弼は文化12年(1815年)に生まれ、江戸幕府大老を務め、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、日本の開国へと導きました。しかし、朝廷の許可を得ずに開国した経緯から、朝廷から説明を求められました。これに対する直弼の対応に不満を募らせた志士たちは朝廷に働きかけ、孝明天皇が幕府を非難。この前代未聞の朝廷による政治関与に直弼は厳しい態度で取り調べを進め、多数の志士を捕縛し、静粛しました。しかし、このことは尊王攘夷派から反感を買い、安政7年(1860年)桜田門外にて直弼は首を刎ねられました。 井伊直弼自身、本来は鎖国論者とも言われています。嘉永6年(1853年)の黒船来航の際に幕府に出した一度目の意見書では鎖国継続を主張、二度目の意見書では積極的な交易と開国を主張していますが、後半部分では「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記されているためです。また、勅許を得られないで条約に調印することに対して否定的で、事態がそうなってしまった際、直弼は大老辞職の意思があったといいます。 歴史がいっぱい詰まったお社です。
chu “お城とお酒と一人旅”chu “お城とお酒と一人旅”
井伊谷城跡及び周辺の史跡を巡って、次の目的は龍潭寺と井伊谷宮である。今、午後3時近い。龍潭寺の駐車場は午後4:30で閉鎖される。時間制限のない井伊谷宮の駐車場に車を停めて見学することにした。井伊谷宮と龍潭寺は奥の宗良親王墓の方で繋がっていて見学の便は良い。 さて、宗良[むねなが]親王を御祭神とする井伊谷宮だが、創建は明治天皇により明治5(1872)年、そして翌年旧官幣中社に列せられた。宗良親王が薨去されたのが元中元(1385)年であるから、実に487年後となる。なぜこんなに後にと不思議だが、これには武家と朝廷との国家権力の争奪戦の決着が見て取れる。 日本は元々平安時代までは朝廷(天皇)支配であった。それが源頼朝に始まる鎌倉幕府と後白河・後鳥羽上皇の権力争いの結果、朝廷が敗れ武家政治が確立した。その後、鎌倉幕府は乱れ、後醍醐天皇が朝廷政治を復活(建武の中興)したが僅か2年で瓦解、南北朝時代となった。南北朝時代は結局足利尊氏の傀儡であった北朝方が勝利し、再び武家政治の足利幕府が成立した。 この南北朝時代に後醍醐天皇の第四皇子宗良親王は、井伊谷に東征将軍として下り、北朝方と遠江・駿府をはじめ信濃・甲斐・越後等各地で激闘を繰り返したが敗れ、井伊谷に戻り前述の通り元中元(1385)年に薨去した。 その後、室町時代、(戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代と武家政治を経て、再び朝廷政治(薩長武家の傀儡的なイメージもある)が復活(王政復古)したのである。つまり朝廷は487年間悶々としていて、明治維新によってやっと過去の雪辱を果たしたのである。だから、この明治の初めに、487年前に朝廷政治実現のために命を捧げた皇子をはじめ所縁の人々(武家も含む)を御祭神とする神社を創建したのである。 因みに、この時、建武の中興関連で15社創建されている。有名な宗良親王の兄護良[もりなが]親王を御祭神とする鎌倉宮もこの時創建された。新田義貞を御祭神とする藤島神社、楠木正成を御祭神とする湊川神社なども同様である。 尚、井伊谷宮境内には摂社として井伊社がある。こちらも見学すれば更に宗良親王と井伊氏の関係が深く理解できるのでお奨めである。 また、井伊谷には、二宮神社というのがあり、ここにも宗良親王が祀られている。こちらは宗良親王が薨去した元中元(1385)年からであり、こちらの方がずっと歴史は古く、価値があるのではないか。《2023.2.2訪問》
濱乃翔穏濱乃翔穏
後醍醐天皇の第四皇子で、方広寺を開いた無文禅師の兄にあたる宗良(むねなが)親王を祭神として祀る神社です。 後醍醐天皇の命により征東将軍に任ぜられ、伊勢の大湊から船出した親王は、遠州灘で嵐に遭い浜松市の白羽湊に漂着した後、井伊家に迎えられて井伊谷城に入りました。以後北朝方との戦いを重ねましたが、三岳城、大平城と落とされて遠江の南朝勢力は滅びました。その後、親王は遠く新潟方面まで流浪した末、72歳で没したと言われています。 明治5年、明治天皇の思し召しにより宗良親王を祀る井伊谷宮が創建され、翌年には県内二番目という格式高い神社となりました。文武に秀でた親王の御利益として「学徳成就・合格・長寿・除災開運・道開き・交通安全」などがあるそうです。拝殿左側から奥に進むと京の都方向を向いた宗良親王の墓所があります。 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中で、隣の龍潭寺はよく出ていたのに、井伊谷宮が全く登場しないことに疑問を感じていました。よく考えてみれば、井伊谷宮は明治時代創建の神社なので、直虎の生きた戦国時代には存在していなかったんですね。
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井伊谷宮の御祭神は宗良親王です。 応長元年(1311年)に生まれ、元徳2年(1330年)に比叡山延暦寺の貫主である天台座主(第120世)に任じられました。父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒幕後、南北朝が対立すると、還俗し南朝方として活躍しました。延元3年(1338年)、伊勢から陸奥に渡る際に座礁して井伊谷のもとに身を寄せ、信濃、上野、越後、美濃などに軍を進めました。晩年にこの地を訪れ、元中2年(1385年)に薨去されました。 明治元年、明治天皇より井伊谷宮創立の勅旨が出され、明治5年に鎮座されました。社の裏手に宗良親王の御墓があります。 また、ここは井伊氏発祥の地。鎌倉時代には井伊介(いいのすけ)を名乗って幕府に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子宗良親王について挙兵するも、建武4年(1337年)に北朝方、駿河の今川氏に敗北し、今川氏の軍門に降ったといいます。 永禄3年(1560年)、今川義元は駿河、遠江に加え、三河を治めるために尾張国へ大軍を動員した際、その先陣として井伊直盛を任命した。しかし、桶狭間で休息中に織田信長本隊に攻められ、今川義元とともに井伊直盛は討死し、その亡骸は井伊谷宮の隣の龍潭寺に葬られたといいます。 直盛の息子、井伊直親が謀反の嫌疑で主君の今川氏に殺され、大河ドラマ『おんな城主直虎』で取り上げられた井伊直虎が当主となりました。直親の遺児、井伊直虎は永禄11年(1568年)の駿河侵攻で今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、天正10年(1582年)の本能寺の変に際しての伊賀越えに同行、その2年後の小牧長久手の戦いではその勇猛さから『井伊の赤鬼』と恐れられ、天正18年(1590年)の小田原攻めでは数多の武将の中で唯一夜襲をしかけて小田原城内まで攻め込んだといわれます。数々の戦功により、関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、東軍指揮の中心となり、敵方の大名を仲間に引き入れたり、勇猛に戦ったりと武功をあげ、戦後処理も和平交渉を行ない、家康の信任を得て徳川四天王の一人となりました。これらの功により、近江国佐和山を任され、彦根城の築城が始まりましたが、その途中の慶長7年(1602年)に42歳で死去。彦根城完成後、彦根藩が置かれ、以来、廃藩置県まで井伊氏の藩となりました。 井伊直弼は文化12年(1815年)に生まれ、江戸幕府大老を務め、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、日本の開国へと導きました。しかし、朝廷の許可を得ずに開国した経緯から、朝廷から説明を求められました。これに対する直弼の対応に不満を募らせた志士たちは朝廷に働きかけ、孝明天皇が幕府を非難。この前代未聞の朝廷による政治関与に直弼は厳しい態度で取り調べを進め、多数の志士を捕縛し、静粛しました。しかし、このことは尊王攘夷派から反感を買い、安政7年(1860年)桜田門外にて直弼は首を刎ねられました。 井伊直弼自身、本来は鎖国論者とも言われています。嘉永6年(1853年)の黒船来航の際に幕府に出した一度目の意見書では鎖国継続を主張、二度目の意見書では積極的な交易と開国を主張していますが、後半部分では「海軍力を整備し、遠洋を航海できる技術を得れば、時宜を得て鎖国に戻すことも可能」と記されているためです。また、勅許を得られないで条約に調印することに対して否定的で、事態がそうなってしまった際、直弼は大老辞職の意思があったといいます。 歴史がいっぱい詰まったお社です。
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井伊谷城跡及び周辺の史跡を巡って、次の目的は龍潭寺と井伊谷宮である。今、午後3時近い。龍潭寺の駐車場は午後4:30で閉鎖される。時間制限のない井伊谷宮の駐車場に車を停めて見学することにした。井伊谷宮と龍潭寺は奥の宗良親王墓の方で繋がっていて見学の便は良い。 さて、宗良[むねなが]親王を御祭神とする井伊谷宮だが、創建は明治天皇により明治5(1872)年、そして翌年旧官幣中社に列せられた。宗良親王が薨去されたのが元中元(1385)年であるから、実に487年後となる。なぜこんなに後にと不思議だが、これには武家と朝廷との国家権力の争奪戦の決着が見て取れる。 日本は元々平安時代までは朝廷(天皇)支配であった。それが源頼朝に始まる鎌倉幕府と後白河・後鳥羽上皇の権力争いの結果、朝廷が敗れ武家政治が確立した。その後、鎌倉幕府は乱れ、後醍醐天皇が朝廷政治を復活(建武の中興)したが僅か2年で瓦解、南北朝時代となった。南北朝時代は結局足利尊氏の傀儡であった北朝方が勝利し、再び武家政治の足利幕府が成立した。 この南北朝時代に後醍醐天皇の第四皇子宗良親王は、井伊谷に東征将軍として下り、北朝方と遠江・駿府をはじめ信濃・甲斐・越後等各地で激闘を繰り返したが敗れ、井伊谷に戻り前述の通り元中元(1385)年に薨去した。 その後、室町時代、(戦国時代)、安土桃山時代、江戸時代と武家政治を経て、再び朝廷政治(薩長武家の傀儡的なイメージもある)が復活(王政復古)したのである。つまり朝廷は487年間悶々としていて、明治維新によってやっと過去の雪辱を果たしたのである。だから、この明治の初めに、487年前に朝廷政治実現のために命を捧げた皇子をはじめ所縁の人々(武家も含む)を御祭神とする神社を創建したのである。 因みに、この時、建武の中興関連で15社創建されている。有名な宗良親王の兄護良[もりなが]親王を御祭神とする鎌倉宮もこの時創建された。新田義貞を御祭神とする藤島神社、楠木正成を御祭神とする湊川神社なども同様である。 尚、井伊谷宮境内には摂社として井伊社がある。こちらも見学すれば更に宗良親王と井伊氏の関係が深く理解できるのでお奨めである。 また、井伊谷には、二宮神社というのがあり、ここにも宗良親王が祀られている。こちらは宗良親王が薨去した元中元(1385)年からであり、こちらの方がずっと歴史は古く、価値があるのではないか。《2023.2.2訪問》
chu “お城とお酒と一人旅”

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後醍醐天皇の第四皇子で、方広寺を開いた無文禅師の兄にあたる宗良(むねなが)親王を祭神として祀る神社です。 後醍醐天皇の命により征東将軍に任ぜられ、伊勢の大湊から船出した親王は、遠州灘で嵐に遭い浜松市の白羽湊に漂着した後、井伊家に迎えられて井伊谷城に入りました。以後北朝方との戦いを重ねましたが、三岳城、大平城と落とされて遠江の南朝勢力は滅びました。その後、親王は遠く新潟方面まで流浪した末、72歳で没したと言われています。 明治5年、明治天皇の思し召しにより宗良親王を祀る井伊谷宮が創建され、翌年には県内二番目という格式高い神社となりました。文武に秀でた親王の御利益として「学徳成就・合格・長寿・除災開運・道開き・交通安全」などがあるそうです。拝殿左側から奥に進むと京の都方向を向いた宗良親王の墓所があります。 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中で、隣の龍潭寺はよく出ていたのに、井伊谷宮が全く登場しないことに疑問を感じていました。よく考えてみれば、井伊谷宮は明治時代創建の神社なので、直虎の生きた戦国時代には存在していなかったんですね。
濱乃翔穏

濱乃翔穏

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