鴻池新田会所は江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理 運営を行った施設です。 鴻池新田駅の南にある、大阪では珍しい日本建築の施設です。 私の子供時代、両親の田舎に帰れば このような家でした。土間があって 縁側があって。 今の大阪には無くなってしまった静かに流れる時間がここにはあります。
The Kamoike Nittakaisho is a facility that manages and manages Nitta, which was developed by the Japanese merchant Ruiike family during the Edo period. This is a rare Japanese architecture facility in Osaka, south of Tsugaike-Nitta Station. It was such a house when I returned to the country of my parents during my childhood. There is a ground and there is an edge. There is a time of quiet flow which has disappeared...
Read more重要文化財に、指定されて整備したときに、船着き場が半分埋められたのはもったいなかった。
この北東部の鴻池本町は 当時の入植者の家々があり 茅葺きや、銅を被せた屋根も1980年代まであった。 それぞれ 100~200坪ほどの敷地に 南は庭、北には前栽があり、 牛小屋、井戸もあった。 入植者の家は 平屋造りで二階には米を保存するように造られており、広い土間の天井は一部開くようになっていて、滑車がついていた。
鴻池本町の現在ある道は、ほぼ水路だった。 (鴻池公園の下もJUSCO前はいまも地下が水路)
家々は寝屋川が大雨で決壊する、特に「枚方切れ」が起こると鴻池は洪水になるため 軒に小舟を吊るしていた。
同時にその小舟で鴻池会所に米を運んでいた。その船着き場が前出のものである。
Wikipediaにはなぜか米作に向かず蓮根作りが盛ん、と書かれているが この辺りは間違いなく米を作り 鴻池会所に運んでいた。
ちなみに田んぼの畦道にて大豆などを作ったものには課税対象にされないため、とても良い地主として「鴻池...
Read more江戸時代宝永元年(1704年)の大和川の付け替え工事によって生み出された土地を鴻池家で新田(といっても下流側は畑として綿作などに活用されました)として開発するにあたり設置された会所で1707年に設置されています。 鴻池新田は約120ヘクタールに及び大和川の付け替えに伴い開発された新田の中では最大の面積がありました。会所は堀に囲まれ会所内にある船着き場から川舟で寝屋川を伝って大坂の町まで作物を運んでいたとのことで、現在も船着き場は遺っています。 会所は新田開発に当たって設置されたお役所で、大坂町奉行の配下にありましたが、鴻池家が専ら差配していました。 鴻池家は尼子氏の重臣であった山中鹿之介の系譜にあたります。摂津鴻池で清酒醸造業を営んでいましたが、清酒の海上運送を行う廻船事業にも進出し成功して財を築いた後に、大坂の両替商に仲間入りし、その最上位に位置付けられる十人両替の一角を占める豪商となりました。その後、新田開発も手掛けるなど幅広く事業を営んでコングロマリットを形成し当時大坂随一の豪...
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