若江城について、発掘での大量の遺物の出土を機に関心が高まり、調査が進んだ時期もありましたが、永い間その時の通説が順送りとなっていました。しかし、近年、少しずつ進んだ発掘調査や史料の新たな解釈と解明により、再び研究が進みつつあります。
◎若江城跡(東大阪市若江南町2丁目) 河内の平野部のほぼ中央部、玉串川と楠根川に挟まれ、楠根川を自然の外堀とした完全な平城。長禄4年(1460)9月、河内守護職を更迭された畠山義就は、京都から洞ヶ峠(現枚方市)を経て、若江城に入っている。若江城は義就が守護に就任した康正元年(1455)3月よりこのときまで守護所として河内の政治的中心地であったと考えられる。応仁の乱中も、「大乗院寺社雑事記」文明2年(1470)8月5日条に「自昨日於河内国合戦有之、(東方畠山)若江城」とあり、東軍畠山政長の本拠すなわち守護所であったらしい。(中略)その後、義就は高屋城(現羽曳野市)を築城して拠点を移したので、中心地としての地位は高屋に移った。 下って永禄11年(1568)10月、畿内に覇を唱えた織田信長は三好義継を河内北半国守護に補任して、若江城におらしめ、再び当城は河内の中心地となったが、天正元年(1573)11月、義継が前将軍足利義昭をかくまったため信長の怒りを買い、佐久間信盛に攻められて義継は自殺し、落城。 以後若江城には、信長に降った義継の部将若江三人衆(池田丹後守・野間左吉・多羅尾右近)が置かれたが。三人衆は後に八尾城(現八尾市)に移った。その時期は不明。 今日、若江城の遺構として地表に現れたものは皆無で、断片的な発掘調査により水路跡・壁面遺構などが発見されている。(後略) ※出典・参考:大阪府の地名2(平凡社刊)
◎若江城[ 永禄11年、三好義継若江城主説 ] 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を伴い上洛すると、河内の三好三人衆方の城は没落した。これにより義昭は、畠山昭高に高屋城を、三好義継に飯盛城を与えた。ところが『甫庵信長記』などののちに書かれた史料では、これを若江城としている。実は、これらの質の悪い史料によって、今まで三好義継の若江城入城説が通説として現在まで至っている。しかし、詳細に見ていくと、永禄八年以降、三好三人衆方と松永久秀方が河内で繰り広げた戦いで、若江城は登場しない。若江城は畠山義就の時代に廃城となり、それ以後は使われていないのだから当然である。上洛して間もない義昭が、城の無い若江に義継を入れるような無茶はさせないだろう。 ※近畿の名城を歩く...
Read more若江城は、大きく室町時代の初め河内國の守護・畠山基国によって築かれ、国を治めるための守護所(役所)とした城、その後、織田信長により河内北半国とともに三好義継に与えられた城、天正元年(1572年)に信長が義継を滅ぼし石山本願寺攻めの拠点とした城の三時期に区分することができます。基国、義継段階の城はあまりよくわかっていませんが、信長時代の城は現在の若江幼稚園周辺を中心に素掘りで逆茂木(堀内の防御用の杭列)の打たれた幅約30m、深さ4mの内堀に囲まれた約20,000㎡の主郭(本丸)を持つ城で瓦葺き、白壁の隅櫓が建っていたことがわかっています。外堀まで含めると約420,000㎡で当時の城の中でも最大級であったことから信長がこの城をいかに重要視したかがわかります。堀の中からは、当時の城で使われていた多くの遺物が出土しており日常品(土師器、陶磁器、木製品、漆器椀等)とは別に鉄砲玉や刀の部品なども出土しています。また、主郭内からは柱穴、礎石、基壇、石垣などが発見されております。記録から、義継の家臣で信長に付き城を預けられた一人、池田丹後守教正により建てられたキリシタンの教会が存在したことが知られています。城下町も存在したと思われますが、石山合戦が終了した直後の天正8年(1580...
Read more☆大阪の都市部、城郭としての遺構は地上に全く無し、街中の一角に石碑。 近年、数多くの発掘調査で当時の様子が徐々に解明され中心部分の主郭は室町時代の守護大名の館らしい東西・南北が約130mの方形居館と判明、やはり管領家/畠山氏の城、総構の規模は東西・南北約570mと巨大な縄張‼️
☆歴史上、色々な側面を持った城郭。 ・15世紀には幕府管領家であり河内守護「畠山氏」の居城。 ・1573年(元亀4年)槇島城の戦いで敗れた室町幕府15代将軍「足利義昭」が退去入城した城。 ・1576年(天正4年)以降、織田信長が入城し石山本願寺攻めの拠点とした城。 ・1580年(天正8年)「...
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