当初東側の音羽山(1501年頃)に蒲生家の音羽城6万石があり、その後1533年に砦を今の場所に作り中野城(🏯日野城)、氏郷のお爺さん定秀が新たに現在地に築城し、城下町も整備しています。1556年 蒲生氏郷が産まれています。本城の跡には、氏郷産湯の井戸が残っています。回りは当時の土塁や石垣、空堀、土橋などがのこっています。近くに日野ダムが出来たので、城跡の一部はなくなっているとの事です。1582年本能寺の変の時、氏郷のお父さん 賢秀が守っていたので、連絡をとり、信長の妻、妾など一族を日野城🏯にかくまってます。明智光秀に対抗姿勢をみせています。近江の国人などは大半光秀に見方した中、氏郷と瀬田城主山岡景隆も唐橋を落とし抵抗しました。その後豊臣秀吉の時代になり、1584年伊勢松ヶ島(松坂城)城12万石に国替えになり、日野城は荒れていきます。1585年レオンとしてイエズス会にはいっています。1590年伊達政宗の抑えとして、会津黒川城(若松城)92万石の大大名になります。その後は、朝鮮出兵のおりに体調を崩し、1595年伏見の蒲生屋敷で亡くなっています。享年40才でした。京都大徳寺の黄梅院に墓所があります。後に墓を発掘され、刀を抱いた形で葬られていました。氏郷の病死後蒲生家は宇都宮12万石になり、存続しています。現在の土塁の上に江戸時代になり、1620年仁正寺藩の藩庁がたてられ、神社⛩もたてられ、今の形になりのこっています。1862年市橋長政のときには、西大路藩に改名しています。アクセスはJR近江八幡駅🚉から🚌バス、日八線に乗り、日野川ダム口で下車し、道を...
Read more蒲生氏郷公が伊勢松阪に移る迄の蒲生氏の居城。近くには氏郷公産湯の井戸もあります。 日野川右岸の河岸段丘上に位置し、日野谷の中野の地に築かれたので中野城と呼ばれますが、史料上は「日野城」「蒲生城」などと表記されています。 築城年代は、文亀(ぶんき)四年(1504)、大永(だいえい)四年(1524)、天文(てんぶん)年間(1532~55)など諸説があります。築城には約三年の年月を要し、延べ十万人余の人夫が動員されたと伝えられています。定秀(さだひで)・賢秀(かたひで)・氏郷(うじさと)と三代にわたる蒲生家の居城となり、現在の日野市街地は当城の城下町として整備・発展したものです。天正(てんしょう)十年(1582)に起きた本能寺の変の際には、賢秀・氏郷親子は織田信長の妻子や女房衆を安土城から当城へ退避させました。天正十二年に蒲生氏が伊勢国松ヶ島(三重県松阪市)へ転封となった後、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に廃城となりました。江戸時代には、仁正寺(にしょうじ)(のちに西大路と改称)藩主市橋長政(いちはしながまさ)が当城跡の北東部分に陣屋を構えました。 第二次世界大戦後の開墾や日野川ダム建設工事などにより旧状は大きく改変され、現在では本丸跡の北側を中心に土橋、土塁や堀の一部が残るだけとなってしまいました。なお、土塁上に建つ神社や石垣は江戸時代のものです。また、本丸跡には復元された井戸跡があります。これは氏郷公産湯の井戸と呼ばれ、氏郷出産の際に産湯として使わ...
Read more⭐️以前から一度、是非、訪れたかった蒲生氏の居城『日野城』、別称:中野城👀
①1582年/天正10年、「本能寺の変」で織田信長横死、明智勢の来襲受け安土城にいた信長の妻子や一族を蒲生賢秀と氏郷の父子が連係で救助、迎い入れた地、そして明智勢を迎え撃とうとした地❗️
②1584年/天正12年、豊臣秀吉の命で伊勢松ヶ島城12万石に移封、その後「松坂城」を築城開始、城下町形成、近江日野商人⇒伊勢松坂商人に引っ越し転居😅
③『蒲生氏郷』生誕の地…信長に人質の幼少期から一目置かれ信長の三女/冬姫が正室、秀吉が恐れた文武に秀でた器量人、茶道の利休七哲の一人🍵
⭐️日野川に突き出た丘陵の東突端に3年掛け築城、日野川ダム造成時に破壊され、殆ど何も城郭遺構がないだろうと思いきや、一部本丸と少しの石垣と土塁、堀の一部、「蒲生氏郷公産湯の井戸」もあった、来てみて良かったです🤔
⭐️日野城址東側に広がる日野川ダム、風光明媚、広い駐車場もありトイレ完備、ダム周辺散策も気持ち良かった✨
⭐️『るろうに剣心』のロケ地⁉️ ・日野城址…佐藤健vs伊勢谷友介の決闘の地⚔️ 【余談】 ・先日訪問した滋賀県大津市の園城寺/三井寺も偶然『るろうに剣心』のロケ地でした、吉川晃司が石橋の上に仁王立ち、佐藤健が武井咲を間一髪助け、佐藤健と吉川晃司が初めて出会うシーンの撮影場所、普段も凄く雰囲気があり静寂に...
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