七代目儀兵衛こと梧陵。
濱口家家訓そのままに奉公人と寝食を共にしながら、その私財=ヤマサ醤油江戸深川(元禄年間に下総国銚子荒野に進出)の出店で稼いだ利益資金、をもって広村堤防建設の公共インフラ事業政策を、なんと江戸末期に、一商人が立案実施しているということに驚きます。
家屋流出し道や橋、田畑とその水路にいたるすべてのインフラを失いもはや生きる希望を失していた広村民たちの前に「復興」という精神的支柱をしめしながら経済的な自立を自ら公共事業を起こすことでも支え続けたその偉業に思いを馳せずにはいられません。
物理的に堤防を作っただけではないのだ。離村一家離散の危機にあった寒村で堤防建設事業を起こし都市からのお金で地方経済を再生させたのだから。
「生ける神」とは、 稲むらの火で救っただけにとどまらず、 家業の醤油屋で稼ぎ出した利益資金の多くを 堤防建設に注入し被災した村人を雇い入れて 生活自立再建の為に現金収入の道を作ったそのアフターストーリーにこそ相応しいのでしょう。
稲むらの火の館公式HPより 安政元年の津波を目の当たりにした濱ロ梧陵は、濱ロ吉右衛門氏と諮り、中世畠山氏の築いた波除石垣の後方に高さ5m、根幅20m、延長600mの大防波堤を安政2年(1855年)2月に着工し、安政5年(1858年)12月に完成させました。
工費銀94貫344匁(1,572両)の私財を投じ、延人員56,736人の村人を雇用することで、津波の被害で荒廃した村からの離散を防ぎました。
昭和13年12月14日、濱ロ梧陵墓とともに国に史跡指定されています。 以上、稲むらの火の館公式HPより引用おわり
その偉業と足跡については、広八幡神社境内にある碑文を是非参照ください。
動画で詳しく知りたい方は、NHK...
Read moreヤマサ醤油の七代目当主である、濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)が広川町から津波を防ぐために作った堤防です。度重なる津波被害により、濱口梧陵はヤマサ醤油で得た資金を元に堤防を作る事業を作りました。
津波により町が荒廃して、仕事が無くなったことで仕事を提供するという意味もこめての事業であり、住民の方々に給料を払い、そして堤防は作られていきました。
現地では景観にまぎれてなかなか堤防は分かりづらいですが、国の指定文化財にも指定されるなど、広川町の見所の一つとなっています。
詳しくはブログ『知の冒険』の稲むらの火の館の記事を参照して...
Read more安政元年(1854)の津波を受け、濱口梧陵が築いた長さ約600m、基底の幅約20m、高さ約5mの堤防で、国の史跡として文化財に指定されています。梧陵は多額の私財を投じ、多くの村人を雇用することで、津波の被害で荒廃した村から人々の離散を食い止めました。昭和21年(1946)に発生した昭和南海地震では、市街地への津波の流入を防ぎました。 稲むらの火の館で申し込めば、耐久社や濱口梧陵銅像とあわせて、語り部による...
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