城の縄張りは江戸時代のもので1564年(永禄7年)10月1日に上杉輝虎が自ら考えた縄張りを普請させ完成の確認を自身で行っています。
武田信玄に対抗すべく越後防衛・信濃進出の最前線基地であったが江戸時代の普請や近年の都市化などで上杉謙信・景勝時代の遺構は見当たらないようですが長野県指定史跡・飯山城跡・飯山城址公園として綺麗に整備されています。
2023年10月8日越後国魚沼郡波多岐庄(妻有庄)より初登城。
JR飯山線魚沼中条駅周辺は鎌倉時代後期から南北朝時代、新田・里見一族の拠点で大井田城を中核に砦や城館の密集地域。御館の乱の際に飯山城を制圧した小森澤刑部少輔政秀、後の米沢藩先祖由緒帳御馬廻によれば政秀の曽祖父・義実は中条惣地頭であったらしい。大井田・飯山両城の最寄りの駅は魚沼中条・北飯山で距離は57.9キロ、十日町から北飯山まで1時間45分。
信濃と越後の武家が争い始めたのは1180年から1185年治承・寿永の乱「横田河原の戦い」でしょうか。
以仁王の令旨を受けた東国源氏がキソ党・サコ党・甲斐武田党・(上野碓氷郡新田党)が源頼朝と別に木曽(源)義仲を旗頭に平家反乱軍を結成し蜂起すると越後府中を制圧、信濃勢が越後に流入した。義仲は北陸道から進軍して京都を制圧、平家一門を追放した。
信濃国小県郡小泉庄を由来とする泉氏は井上氏に同与し活躍が認められ鎌倉幕府御家人となり後に泉親衡の子孫が飯山を拠点として独立丘陵に要害を築いたと思われます。
越後国魚沼郡と信濃国水内郡・高井郡の武家同士の戦としては暦応合戦・永正の乱・上野原の戦い・御館の乱などが挙げられます。
越後国魚沼郡妻有庄と飯山(水内郡・高井郡含む)に関連した武家。
市河氏は大井田氏・倉俣氏・上田長尾氏と姻戚関係を結んだ。越後国魚沼郡内所領は武田氏帰属前は越後国魚沼郡妻有庄内2郷。(上郷・中津川から志久見川間の台地と山岳部)
高梨氏の所領(越後国魚沼郡内)
魚沼郡上田庄内尻高左京亮知行分 大きろく・小きろく・せんこく・竹俣
魚沼郡妻有庄伊達内戸丸惣右衛門尉知行分
魚沼郡千屋郷、小千屋・高梨
南北朝時代から上杉房定・房能時代に高梨氏は版図を拡大した。信州においては善光寺平北部から木島平。越後国内は飛地であるが北は西蒲原郡川中島・荒川(関川)流域。
1464年12月、越後・信濃半国守護上杉房定は高梨討伐軍大将に上杉右馬頭を派遣、信州高井郡高橋で合戦に至ると高梨勢は寡兵ながらも越後勢を敗走させた。
永正の乱(永正6・1509年)1506年上杉房能の越後守護を剥奪・追放した越後守護代長尾為景に加担した主だった信州衆は市川甲斐守・泉信濃介・高梨摂津守で関東管領上杉顕定・嗣子憲房の討伐対象であろう(特に府中長尾氏・外戚高梨氏)
信州、白鳥口・志久見口から市川・泉・高梨ら信州衆は妻有庄に出兵、妻有庄で関東先発隊上杉憲房とその味方と合戦に至る。信州衆が勝利するも一旦退却した憲房は上州から進軍中の顕定本隊と合流。関東軍(主に上野一揆)は妻有庄を制圧、信州泉領水内郡尾崎庄に進軍すると市川・泉・高梨氏は居館に引き籠るしかなかった。
翌年(1510年)先年、顕定父子に越後を追放された越後守護上杉定実と越後守護代長尾為景。為景は佐渡国から本間党と蒲原津に上陸して反撃を開始すると高梨政盛は再び為景に加担。
高梨・牢人衆は妻有庄外丸板山陣で越後府中からの顕定派遣隊に敗れる。
為景軍が越後府中を制圧、顕定は府中から上野国平井に退却途上、為景・高梨氏各軍の追撃を受け東頸城郡から魚沼郡南部の何処かで三軍合戦に至り敗死する。
憲房は越後府中陥落前に刈羽郡椎谷で敗れて直接、妻有庄に撤退していたが同庄を保持出来ず顕定敗死の前後なのかわからないが上野国白井に退却している。
1557年、飯山城近郊の上野原において越後上田長尾政景・越後上田衆など飯山城在陣衆と東条在陣甲州武田衆と局地戦があった。両陣営、成果なく長尾景虎(上杉謙信)は9月、武田晴信(信玄)は10月には信州から撤収。
1578年5月27日越後上田方・小森澤刑部少輔政秀は景虎党の飯山城城代・桃井義孝が越後府中御館に出張り留守の飯山城を攻撃、義孝は御館で既に討死していた可能がある。同年7月22日には飯山城の制圧が完了する。
1579年3月19日上杉景勝の命で越後国魚沼郡妻有庄赤澤城城代に須田五郎を置く。
1580年越後源氏、新田・里見一族の大井田庶家大井田房仲が景勝の命で飯山に知行を与えられ後に佐渡小木代官に任じられた。
房仲は血統では直系。他に大井田名跡を嗣ぐ上田長尾大井田家・嶋倉大井田家が存在する。
地政学的に北信濃は武家の時代、越後府中の統治を受けた期間があるようです。例、信濃半国守護上杉家・上杉景勝・藩主松平忠輝高田藩。
下道での経路:自動車 越後春日山城〜信濃飯山城:43キロ1時間3分 春日山城〜越後魚沼郡妻有城(琵琶懸城):59キロ1時間22分 妻有城〜飯山城:53キロ1時間3分 信濃府中〜飯山城:97キロ1時...
Read more飯山城跡 形態:平山城 別名:なし 文化財指定:県指定史跡 遺構:石垣,郭,堀 城主:目まぐるしく城主が替わった。泉氏→上杉氏→武田氏→織田氏→岩井信能→関一政→皆川広照→堀直寄→佐久間安政→佐久間安長→佐久間安次→松平忠倶→松平忠喬→永井直敬→青山幸秀→本多助芳→本多康明→本多助有→本多助盈→本多助受→本多助賢→本多助実→本多助成→本多助寵→本多助実
歴史:築城年代は定かではないが泉氏によって築かれたと云われる。 泉氏は鎌倉時代に泉小次郎親衡が鎌倉より飯山へ逃れて土着し、泉氏の祖となったと伝えられる。
永禄7年(1564年)頃、上杉謙信は飯山城を改修して武田氏の侵攻に備えた。 その後、武田信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、飯山城が落城することはなかった。
その後、武田勝頼の時代に武田氏の属城となったが、天正10年(1582年)武田氏が滅亡した後は織田氏が占拠した。しかし、本能寺の変により織田勢が退くと上杉景勝の所領となり、家臣岩井信能が城主となった。慶長3年(1598年)上杉景勝の会津転封に従い岩井氏は会津に移った。
和暦(西暦)事象慶長3年(1598年)信濃国長沼より関一政が三万石で入封。慶長4年(1599年)関一政は美濃国多良に転封。慶長8年(1603年)下野国皆川より皆川広照が七万五千石で入封。 皆川広照は川中島十八万石の藩主松平忠輝の守役として飯山に入封しており、独立した大名ではない。慶長14年(1609年)皆川広照は守役を不的確とされ改易、後に赦免され常陸国府中にて一万石の大名に復した。慶長15年(1610年)越後国坂戸より堀直寄が四万石で入封。慶長16年(1611年)駿府城の火災の消火に功があり一万石の加増を受けて五万石。元和2年(1616年)堀直寄は越後国長岡に転封。 近江国高島より佐久間安政が三万石で入封。寛永15年(1638年)佐久間安次が嗣子なく没し改易。寛永16年(1639年)遠江国掛川より松平忠倶が四万石で入封。宝永3年(1706年)松平忠喬は遠江国掛川に転封。 播磨国赤穂より永井直敬が三万三千石で入封。宝永8年(1711年)永井直敬は武蔵国岩槻に転封。 摂津国尼崎より青山幸秀が四万八千石で入封。享保2年(1717年)青山幸秀は丹後国宮津に転封。 越後国糸魚川より本多助芳が二万石で入封。以後、本多氏が続き明治に至る。
説明:飯山城は千曲川の西岸にある比高30m程の丘陵に築かれている。 南端の本丸から北に二ノ丸・三ノ丸、西下に西郭を配していた。...
Read moreThe castle building has long vanished, but the earthworks remain. A charming and little known public park. Worth exploring if you have time to spare before your shinkansen departs from the nearby (400 m)...
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