近畿三十六不動尊霊場の参拝でお伺いしました。 真言宗醍醐派のお寺で大聖山明王院不動寺といい不動尊霊場第八番札所になります、御本尊は五大明王になり別称で五大力不動と呼ばれています。 寺伝によると空海(弘法大師)が弘仁年間(810年~824年)に諸国巡礼を行っている最中に、摂津国西生郡北野村(現:大阪市北区兎我野町)の地で七色に光る石を発見してその石をもって五輪宝塔を作り、不動明王を表す梵字を刻みその五輪宝塔を安置する堂を建てて不動堂としたのが不動寺の始まりと伝わります。 平安時代には嵯峨天皇の勅願所となりまた元暦年間(1184年~1185年)には後鳥羽天皇の勅願所になったというが、文治・建久年間(1185年~1199年)に兵火にかかって堂宇は焼失したがその後に再建されている。 後に不動寺は衰退して行くことになるが文禄三年(1594年)に再興される、豊臣氏や徳川氏の篤い庇護を受けるなどして江戸時代には兎我野の不動様として庶民の信仰をあつめた。 第二次世界大戦中(太平洋戦争)の昭和二十年(1945年)六月の大阪大空襲により堂宇を全焼した、昭和二十五年(1950年)に本堂を再建するが昭和四十一年(1966年)寺の周辺が歓楽街となり参詣環境の悪化が深刻化したため豊中市宮山に移転した。 現在の本堂は鉄筋コンクリート製で造られていてお寺の本堂には見えない、本堂外陣の中央の青い壁に大きな不動明王像が御前立として線画で描かれています、内陣は拝観することは出来ませんので御本尊の五大力不動明王像を安置し脇仏に降三世明王像・軍荼利明王像・大威徳明王像・金剛夜叉明王像・愛染明王像を配置する場所は見ることが出来ません、お寺は別称で「五大力不動」と呼ばれています。 その他の諸仏として十一面観世音菩薩像・地蔵菩薩像・阿弥陀如来像・弘法大師像等が安置されています。 本堂脇の護摩堂には本尊の不動明王像や神変大菩薩像(前鬼像・後鬼像)が安置されています、また階段左側には石仏の身代不動明...
Read more大聖山を山号、五大明王をご本尊とする真言宗醍醐派の寺院で、諸国行脚をしていた空海が現在の梅田周辺にあたる摂津国西生郡北野村で七色の光を発する石を発見し、その石で五輪宝塔を作り、不動明王の梵字を刻んだ。その宝塔を祀るために建てた不動堂が始まりという。平安期には52代嵯峨帝や82代後鳥羽帝の勅願所となって隆盛したが、その後、兵火により、衰退した。1594年には再興され、豊臣氏や徳川氏の庇護の下、"兎我野の不動さま”として庶民の信仰を集めた。1945年の大阪大空襲で全焼したが、1950年には再建されたものの、周辺が歓楽街となり、環境悪化が深刻化し、伝統行事の大護摩法も行えなくなったことで、1966年に現在地に移転し、このとき建てられた本堂はコンクリート造りの近代的な建物となっていて、生駒山や周辺の住宅地を望む眺めも良い。本堂脇の護摩堂や仁徳帝が愛したという鹿を祀る白鹿堂、太平洋戦争での戦死者を祀る英霊堂は移転前の建物を解体、移築した建物である。本堂内の壁面には密教で中心的な役割を担う五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)のうち、最高位の不動明王がお前立として描かれ、五体の明王さまやほかの仏像を普段は直接拝めないようだ。近畿三十六不動尊霊場第8番札所。摂津国八十八箇所第8番札所。 23/12/22、近畿三十六不動巡礼に参拝した。豊中市だから平野の中だろうと思って出かけたが、小高い丘からの眺めがとても良かった。お寺の周辺の住宅地内は道が細いので...
Read more色々と沢山の御朱印がありました。
私がお願いしたのと違う御朱印が書かれて出てきました。
お寺の方とはいえ人間ですからどなたも間違うことはあります。 別にそれに対してはとやかく言うつもりは無いですが、 私の言葉に対して言い訳ばかりで 一切の謝罪が無かったのは宗教施設の人間として如何な物かと思いました。
その時は間違えられた御朱印を頂きに再度来ようかとも思いましたが、
本堂に Googleマップへのコメントを求めたり、InstagramやLINEの友だち募集の張り紙を見つけた瞬間にその気も失せましたw
間違う原因になるほどの数の御朱印 上記の張り紙 何を考え求めておられるのかは推して知るべしという事でしょう。
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