壱岐に来て、主要な所はほぼ回れたので(いや、まだ壱岐は奥深いものだが)、残り時間で回れる名所をと思い勝本城跡に行きました。 私は、歴史に疎いので、豊臣秀吉が朝鮮出兵時に築城したと書いてあるのを見て、その為に壱岐に城を建てると言う事が位置的な観点から考えると必然的だが、今まで想像すらした事がなかった。 長崎の人は、歴史に詳しいのではと勝手に思ってしまった。 あと、ここに御柱があるのを見て、とある御飯屋さんで見た御柱祭のポスターの謎が解けました。 ポスターを見た時、思わず二度見しましたから。 御柱祭って、長野だよな~と思ったので、間違いでは無かったようで納得しました。 諏訪市と壱岐市が姉妹都市…曽良翁の生誕と終焉の地。 河合曽良と言う松尾芭蕉の蕉門十哲の一人の話が書いてありました。 上の方に登って、稲荷神社を越えて行くと河合曽良の墓の矢印看板が。 ここに来たら、お墓参りもしておかないとと思い次の矢印看板まで下りました。 看板落ちてますけど… 方向は下で合っていますでしょうか? Google先生出動! ずいぶんと下っていかないと行けない位置をお示しに成られていますね… 疲れ気味なので、諦めて戻ります。 また、次の機会があればお参りいたします。 ちなみに勝本城は、風本城として建てられたようです。 勝本がむかし風本、風早と名付けられた場所だったようです。 聖母宮の宮司さんからも、...
Read more豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に伴い、天正19年(1591年)にわずか4ヶ月で築城された城跡。 秀吉は唐津の名護屋城を本陣とし、壱岐に勝本城、対馬に清水山城を拠点として設置した。 勝本城の築城は壱岐を治めた平戸藩の松浦鎮信(しげのぶ)を中心に有馬晴信(はるのぶ)、大村喜前(よしあき)、五島純玄(すみはる)が支援した。完成後は本田俊政(豊臣家家臣)が兵500を率いて入場し、慶長3年(1598年)まで在城した。 秀吉の没後は役目を終え、江戸時代に破棄された。 城跡には秀吉の大石垣や礎石跡、平場(郭)、虎口(こぐち・敵の侵入を防ぐ出入口)が残る。石垣のすみは城を壊したことを示す作法として崩されています。これは破城(はじょう)や城破(しろわり)の痕跡であり、名護屋城など他の城でも同様の例が多くあります。 現在は国指定史跡になっており、本丸には展望台があります。近くに松尾芭蕉の弟子であった曽良の墓もあります。とても眺めが良く、散歩や休憩にもちょうどいいところです。日本遺産「国境の島 壱岐・対馬・五島〜古代からの架け橋〜」の構成遺産にもなっています。 朝鮮出兵時には島外から多くの人々がやってきました。兵はもちろんですが、それに伴い商人や職人、飯炊きなどさまざまな人が入ってきたことでしょう。壱岐にはそんな島外から入ってきた人々によって混乱が生じ...
Read more対馬から早朝のジェットフォイルで壱岐の芦辺港に入港し、港でレンタカー店を探すつもりでしたが、船を降りた所に私のネームプレートを持った人が立っていて、そこで車を受け取り料金を支払いました。 帰りはこの港の空いている所に車を停め、キーを中に入れておけば良いという。 何と長閑な所か。 城山公園で車を降りて北に向かうと切岸が見えて来て、所々に巨石があり上の方に残った石垣が見えます。 破城の痕でしょう。 更に進むとしっかりとした石垣が見え、隅の石が崩れています。 ここが大手門の址です。 登って行くと大手門の枡形虎口となり、主郭に続きます。 城址として雰囲気をとどめるのはこの辺りだけで、主郭の中は広いだけの空間でした。 更に海峡を隔てて対馬を見渡すことが出来る様ですが、この日海は見えても対馬は見えませんし、港なども見下ろせませんでした。 駐...
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