松山から山の中の道で来たので、58番の後にお参り。 こちら納経所にて駐車場お気持ち100円です。
四国八十八ヶ所霊場会HPより 瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。 縁起によると、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂で堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。 栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。 明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。また、栄福寺が所蔵している江戸中期の手書きの納経帳にも「別当 栄福寺」の墨書きがあり、また同じく江戸時代の版木で押された納経帳でも「別当...
Read more自転車遍路でお邪魔しました。
56番札所泰山寺からは約3kmで、ほぼ平坦なルートでした。 栄福寺近くが上りですが、距離は短いです。 途中で、かつて氾濫が多かった蒼社川を渡りますが、今は穏やかな流れで住民を苦しめていた川だったとは想像することができませんでした。
栄福寺は、今治市郊外の竹林に囲まれた静かな場所にありました。 「ぼくはお坊さん」の原作者の住職がいるお寺だそうです。 弘法大師が瀬戸内海の平易を祈願して護摩供をしたことから、海陸安全の神として信仰されています。
弘仁年間(810~824年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願でこの地を訪れました。 当時瀬戸内海で絶えなかった海難事故をおさめるために、瀬戸内海を望む府頭山山頂で護摩法を修法したそうです。 満願の日に、海は凪ぎ、海上に阿弥陀如来が来臨されました。 そこで弘法大師は、山頂にお堂を築き「阿弥陀如来像」を本尊として安置したのが、栄福寺の始まりと伝わっています。
平安時代、大和・大安寺の行教上人が境内に八幡明神を勧請し勝岡八幡宮を創建したことから、神仏混合の時代もあったそうです。。 明治時代の神仏分離令により、栄福寺は現在地に移されました。 大師堂は、その際に府頭山の山頂からその...
Read more四国八十八ヵ所霊場の参拝でお伺いしました。 高野山真言宗のお寺で府頭山無量寿院栄福寺といい、霊場第五十七番札所になります。 御本尊は阿弥陀如来です。 栄福寺は嵯峨天皇の勅願を受け弘法大師が今治近郊の府頭山の山頂で海上安全祈願の護摩法を修し、その満願の日に光輝きながら海から阿弥陀如来が現われた大師は堂宇を建立しこれを本尊として安置したのが寺の始まりとされる。 貞観元年(859年)に行教上人が豊後の宇佐八幡宮の分社を京都の男山に建立するため、瀬戸内海を航行中暴風雨に遭いこの地に漂着する。 上人は府頭山が男山に似ており、しかも本尊は八幡神社の本地仏であることからこの地に八幡神社を勧請し社殿を建立し以後伊予の石清水八幡宮と呼ばれるようになる。 神仏習合時代に栄福寺は八幡宮の別当寺として信仰を集めていた、明治の神仏分離令で寺は山の中復の現在地に移され大師堂も同時に移築された、神仏分離令で栄福寺も一時無住の寺となったが地域の人々の支えもあり何とか持ちこたえた。 大師堂の外陣の柱には干支の...
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