「新編相模国風土記稿」によればこの地は、戦国時代以前(天平年間)の三ノ宮比々多神社が有った所とされ、この一帯の関連する発掘調査で相模国の最大級の古墳であることが明らかになりました。
---比々多神社のhpによれば--- 埒面(らちめん) 天正19年(1591)以前、社殿のあった旧境内地(7町歩)をいい、大祭の折に、鉄棒(かなぼう)を組み警護する事を埒を組むといいます。 この言葉は、京都・上賀茂(かみがも)神社で生まれたそうです。毎年5月5日に行われる賀茂競馬(かもくらべうま)という、その年の吉凶を占う伝統神事において、皆がその行事に集中し、これが終わらないと何事も手につかず、埒(らち)が明かないそうです。無事終わると、馬場の柵である「埒」が片付けられ、埒が明くというわけです。 漢字で記すと、「明かん」。「埒が明く」の否定形、「埒が明かぬ」の「明かぬ」が「明かん」になったということです。 実は、比々多神社の北側に、「埒面」(らちめん)という字名があります。昔は、ここに馬場があり、神事として競馬が行われていました。語源はやはり上記と同じです。
築造年代であるが「6世紀末から7世紀初頭」、室町時代から戦国時代にかけて神社は衰えて荒廃し、天正年間の初めになって現在の場所に移転したとされている。
構造と規模は、直径38メートルの円墳で、墳丘周囲には約5メートルの周溝がある。埋葬施設は幅約2メートル、長さ約4.8メートルの玄室と、幅約1メートル、長さ約4メートルの、自然石の巨石を積み上げて築造された片袖式横穴式石室である。
古墳の築造時期は600年頃と考えられ、当時の相模国では最大級の古墳で、古墳の被葬者としては※相武国造(さがみのくにのみやつこ・さがむこくぞう)が想定されている。※相模国東部を支配した国造。
1968年、恵泉女学園園芸短期大学の建設工事中、古墳の石室が発見されたことにより埒免古墳は発見された。古墳の石室から出土した遺物は、工事中に偶然発見されたこともあり、工事関係者に持ち出されてしまったが、比々多神社宮司の努力により銀装の装飾大刀と考えられる直刀、刀子、金銅製馬具、鏡、鉄鏃、琥珀製棗玉などが回収され、現在は比々多神社にある「三ノ宮郷土博...
Read moreこの古墳は、ヤマトタケ(日本武尊命)の妻ヲトタチバナ姫(弟橘姫)の遺品を納める塚として造られました…景行天皇40年12月8日、大磯から上総へ渡す軍船に乗ったヤマトタケ一行が、漂う風で進路を阻まれたときに、ヲトタチバナ姫は、「わが君の 稜威をヤマトに 立てんとす われ君のため 竜となり 船守らん」と言い遺し海に身を投げました…翌年ミチノクを平定してこの地に帰ったときに、姫の形見分けを受けた臣二人、ホヅミテシ(穂積臣橘右近)とサクラネマシ(桜本臣左近)により、この塚が造られました…暦は、アスズ827年、ヱトはサウヱ(丙辰)、西暦536年でした…(好太王碑辛卯391年を崇神天皇62年として)後に景行天皇もヤマトタケの死を悼みここを訪れて、この塚を守る社が建てられ、この地を妻ヲトタチバナ姫の 吾妻森と名付けたヤマトタケ幼名コウス諱ハナヒコを讃えました…。😄 記紀原本ホツ...
Read more比々多神社の社伝と地名から古墳が存在するのは明白だったのに、神奈川県教育委員会が発掘調査を怠ったばかりか学校建設による破壊を容認した結果、学校建設を担当した土建屋の労働者達に盗掘掠奪された古墳。 そんな事して建てた大学も当然廃校に・・・
盗掘された際に義憤を感じ義挙した比々多神社宮司様や氏子さん達が盗掘者の土建労働者から一部の出土品を取り戻したが、後の祭り。 神奈川県教育...
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