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Sannomiya Hibita Jinja — Attraction in Isehara

Name
Sannomiya Hibita Jinja
Description
Nearby attractions
Rachimen Tumulus
1436 Sannomiya, Isehara, Kanagawa 259-1103, Japan
Isehara Tonoyama Park Center
1804-1 Sannomiya, Isehara, Kanagawa 259-1103, Japan
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68-5 Kushihashi, Isehara, Kanagawa 259-1136, Japan
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552-5 Godo, Isehara, Kanagawa 259-1138, Japan
Coco's Restaurant
410 Godo, Isehara, Kanagawa 259-1138, Japan
ステーキガスト 伊勢原店
496 Shirane, Isehara, Kanagawa 259-1147, Japan
Yakiniku King
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71-4 Tsubonouchi, Isehara, Kanagawa 259-1104, Japan
Saizeriya
596-1 Shirane, Isehara, Kanagawa 259-1147, Japan
Nearby hotels
Hotel Route Inn Isehara
417-1 Godo, Isehara, Kanagawa 259-1138, Japan
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Sannomiya Hibita Jinja
JapanKanagawa PrefectureIseharaSannomiya Hibita Jinja

Basic Info

Sannomiya Hibita Jinja

1472 Sannomiya, Isehara, Kanagawa 259-1103, Japan
4.3(468)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

Cultural
Scenic
attractions: Rachimen Tumulus, Isehara Tonoyama Park Center, restaurants: Kura Sushi Isehara, バーミヤン 伊勢原店, Orochon Ramen Rishiri Isehara, Hoka, Coco's Restaurant, ステーキガスト 伊勢原店, Yakiniku King, Kourakuen, Saizeriya
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Traverse the outer rim of Hakone caldera
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oki hiroshioki hiroshi
2018/04/19(木曜日)に今年最初の聖峰にハイキングした帰りに参拝して来ました。 4月22日に例大祭があるので神社関係者は大忙しのようでした! 社務所脇の駐車場には祭礼の提灯が架かっていました。 2018/01/03(水曜日)に心の氏神様に初詣の参拝しました。 毎年本社前に干支の置物が出されます。 今年は戊戌(つちのえ・いぬ)年で可愛い「ワンコ」が参拝客を本社前で迎えてくれています。 所で五行思想(ごぎょうしそう)では大いなる繁栄を意味する十干「(じっかん)甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の5番目の戊ですが、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」にあたり、滅亡を意味します。 十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の「戌」(いぬ・じゅつ)は、生命の成長サイクルの11番目で枯れた木を表し、終焉・滅亡・終わりを意味しているそうで、そこから派生したのが、後に「滅」という字も生まれました。 戌は陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。 この様に陰陽道における「陽の土」が重なり合う「比和(ひわ)」という関係の年である。この同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。 その威力は最大限に強くなり、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にあるそうです。 2017/12/10に聖峰登山に行く途中、安全祈願で拝殿。初めて比々多神社の御朱印を頂きました。 境内拝殿前で七五三の家族ずれの写真撮影で随分と賑やかで私は邪魔をしないように撮影が終るまで待ちました(笑!) 子供の頃から境内で遊んでいた心の氏神様。 毎年4月22日春の例大祭です。 例大祭には3台のカラクリ山車が巡行(東名高速が出来てからは神戸までは行けなくなりました)栗原村「熊谷直実」、比々多村「加藤清正」、?村「仁木弾正」。神輿は、昔は21日の「動座祭」に本社を降りて神戸で一夜を明かし翌日に本社に戻ったが、今は1日で巡行している様です?。 ◇御祭神 神倭伊波禮彦命(かむやまといわれびこのみこと) ◇相 殿 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)、稚日女尊(わかひるめのみこと)、天明主命、日本武尊、大酒解神(さかとけのかみ)(大山祇神)、小酒解神(こさかとけのかみ)(木花開邪姫神) 境内社 秋葉神社等 ◇祭 日 節分追儺祭(せつぶんついなさい)2月3日、例祭4月22日、国府祭(こうのまち)5月5日(中郡二宮町川匂神社に於いて) ◆比々多神社の由緒 比々多神社の創建年代は不詳ですが、神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられ、大化元年(645)木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納、酒解神を合祀し、うずら瓶(県重要文化財)を奉納したといい、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定される古社で、相模国三宮です。室町時代には戦災により荒廃したものの、天正19年徳川家康より社領10石の朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していました。 ◆新編相模国風土記稿による比々多神社の由緒 (三之宮村)三宮明神社 當村及び栗原・神戸・白根四村の鎮守なり。當社は當国第三ノ宮にして「神名帳」に載る所、郡中四座の一、比々多神社なりと云傳ふ、華表に比々多神社と扁し、拝殿に三宮大明神の額を掲ぐ、按ずるに上糟屋村子易明神社も、式内比々多神社なる由云傳ふれど、両社共考證なく、是非辨じ難し、當社神主の話に、比々多神社と書せる古額ありしを、子易明神神主某に貸与へしが、終に返さずして、後彼社に比々多神社の額を掲げ、式社なる由稱せりと云、是も正き證はなし、祭神豊国主尊、天明玉命、稚日霊女尊の三座にして、大酒解神、小酒解神を相殿に祀る、神体秘して開扉せず、建久三年八月将軍頼朝夫人平産の祈として神馬を奉納せらる。東鑑曰、八月九日、御臺所音産気相模国神社佛寺被修誦経三宮冠大明神。社傳記、天保五年、神主兵部忠記の記なり、を閲するに、當社鎮座の地を往古比々多郷と唱へし故、此神號あり、又當国惣社を以て、中古は三之宮冠大明神、按ずるに東鑑に此神號を記す、を號す。古は社領若干ありしが、今近隣神戸村の唱へあるは、當社封戸たりし遺名なりと云、明應の頃より屢兵火に罹り、神領を失ひ、社人供僧等も離散して社頭甚衰微す。天正の始に至り、社地を今の地に移し、舊地は今の社地の北に続き、字埒免と唱ふる所なり、小社を造立して遷座す。十九年十一月社領十石を附せられ、御朱印を賜りしより、社頭漸く舊に復せりと云、此餘往古の事を記したれど、国史及び東鑑等に露顕せし惣国の神社に係りしことを、枚挙して當社の事とせり、尤此社も古社なれば、其事に輿りしもあるべけれど、其證なければ爰に採らず。又社頭の鐘銘には天平年中、鎌倉鎮将太郎太夫時忠の靈を祀りしとあり。曰、三宮大明神、本地慈悲不動明王霊場也、夫所謂宮地始者、聖武天王御宇、天平年中、當所占地、封建玉宮安置鎌倉鎮将太郎太夫時忠尊影、奉崇敬三宮大明神云々、別當福智山能満寺住持、傳法沙門執翁宗佛銘、神主大貫図書吉次、按ずるに、當時能満寺別当たりし事、寺にては傳へず。按ずるに、大山縁起に僧良辨を當国の良将、染谷太郎太夫時忠と記せり。是同人なるが、但此鐘銘延宝四年撰する所にして、今の社傳と大に異なり、尤信用しがたし。 例祭毎年五月五日。大祭と稱す、此日暁天より所々に篝火を焼、神主禰宜等供奉して、神輿を兒ぎ舊の社地邊を過り、神戸村に至り、化粧塚の上にて注連戸帳等を飾り、串橋村へ渡し、夫より通行の村々の民、其堺にて送迎し、金目村に暫く休憩して淘綾郡国府本郷町神揃山に到る、此時六所の宮の禰宜、異様の衣冠にて馬に騎り、途中に来て神輿を迎ふ、是を在聴と唱へり。一宮より五宮迄の神輿、神揃山に来て祭儀あり、帰輿の時は大綱二條、小綱二條を神輿に結付、山川田畑の嫌ひなく、道なき所を兒超ゆるを例とす、此日近郷より見物の者群をなせり。 六月十六日。小祭と唱ふ。此日祈願ある者、木綿の幟を納む、疫病流行の時、此幟を家内に建置ば、必ず其難を遁ると云。 拝殿・神楽殿等あり。 神寳。 木犬二軀。共に高さ一尺三寸餘、全体木理をあらはし至て古色なり、往古の國司布施朝臣布智が納めし物と云傳ふ。 甕一口。鶴亀と名付口直径六寸八分高一尺五分、石疑姥命作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験ありと云、其図上に出す。 古瓦一枚。扇形にて日の丸の紋あり、長五寸八分横九寸八分、布目あり、是舊の社地より堀得しと云、図左の如し。 鐘楼。延宝四年の鐘を懸。 末社。神明、金毘羅、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。 神木松樹二株。一は囲一丈八尺、一は一丈二尺、あり。 神職大貫左近。地々に住す。白川家の配下なり、祖先図書安重、明暦年中死、より十代相続せり。(新編相模国風土記稿より) ◆境内掲示による比々多神社の由緒 神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられる。崇神天皇の御代神地神戸を奉られ大化元年(645)社殿修復の際、木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納又此年に酒解神を合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。天平十五年(七四三)大宮司に竹内宿禰の後孫紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜う。真田を称す。天長九年(八三二)六月国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模国の惣社として冠大明神の神号を奉られた。鎌倉時代にはいり将軍源頼朝が文治元年(一一八五)に国土安泰の御願書を奉り、建久三年(一一九二)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。南北朝室町時代に戦さに巻込まれ神領の大半を失い衰微したが徳川時代当社が相模国の名社であることを知った家康公より社領を新に寄進され以下十四代将軍まで続いた。よって社運も持直し、明治時代には、社格は 社とし社格制度廃止後指定神社となる。(境内掲示より) 郷土博物館 昭和28年、先代の永井参治宮司によって設立された郷土博物館は、伊勢原の歴史を調べる人々にとって、欠かすことのできない施設となっている。古代の伊勢原の文化発祥地とされる比々多神社周辺には、昭和の初め、360基を超える古墳があったといわれる。以来、数多くの発掘調査が行なわれ、そもそも、その貴重な出土品資料の散逸を防ぐ目的で、当博物館は開設されたのである。 博物館には、付近から出土した縄文式・弥生式の土器等の考古資料の他、中世から江戸時代にかけての古文書、絵図等が、多数保存展示されている。 その2000点にも及ぶ所蔵品のなかには、県重要文化財の「うずらみか」 (昭和31年指定) と呼ばれる須恵器甕、市重要文化財の狛犬一対 (昭和52年指定) ・金銅単竜環柄頭 (昭和57年指定) 等の文化財も含まれている。
えーちえーち
平日の正午直前に到着。朝8時から17時迄となります。🅿️は二ヶ所あり、正面鳥居右側と正面鳥居前を通過した奥の左側にあり無料です。鳥居右側の🅿️は10台程度停められました。鳥居くぐりますと右側に手水舎、生花が生けてありチョロチョロと流れ出ている水で洗心しました。鳥居左側には比々多神社由来案内があります。さて境内はこぢんまりしているのにとても荘厳です。静寂な中で参拝となりました。本殿前はなんと干支である卯の像が左右に鎮座。本殿も程好く拝見出来、本殿右手前の社務所にて御守授与させて戴きました、確か500円からの授与です。御朱印は平日だからなのか、社務所では無く鳥居右側🅿️隣の事務所?にてコロナ禍の為書き置きにて対応されており、500円からの授与です。お手洗い🚻は本殿と社務所の間にあり男女と身障者用もありました。清掃は行き届いており、女性側は洋式ウォシュレットタイプが三器です。コイン式ではありませんが、清潔等維持の為の御寄付柱がありました。元宮が本殿裏手とありましたので折角ですから伺ってみることに。事務所前(社務所裏)の、少し上り坂の小路を歩いていきますとちょっとした林の小路を通ることとなります。入口右手には干支の像が鎮座していて、本殿前の阿吽像はこちらなのかと合点。林の出口付近左側には古墳跡もありました。林を抜けると登り坂の畑一面。見た目はそうでもありませんが実際上がって行きますと足腰に来る辛さ。。最後の三分くらいが一番キツい登りです、必ず参拝にはシューズで。ヒールのある靴は向きません。10分程度登った右手奥に元宮があります。元々はこちらだった比々多神社。渡る風すら下界とは違う感じは気のせいでしょうか。。。皆さんの口コミ通り、元宮付近からの眺めは素晴らしいものです。八幡さまや寒川さまも素晴らしいですが、こちらの雰囲気、とても気に入ってしまいました。伊勢原巡りの際はぜひ。余談ですが授与品の案内を左側から。ランドセル型の鈴になっています学業御守は、確か黒青緑水色赤ピンク黄色の7色あったか、、とイチオシの鈴御守で大人も欲しくなる可愛さ。キューピーさんの子ども御守、スナップタイプの二輪車御守、流鏑馬柄の勝守は二色ありました、交通安全御守も紺色との二色あり、特製甘酒飴はほんのり甘さがたまらなく200円。左上のピンクうさぎは干支みくじ500円、金色の干支土鈴、わたしは初めて出会った神社ものしりトランプはメチャクチャ新鮮です、最後は開運干支かわらけになります。三ノ宮とは思えない授与品の一部でした。
齒氏齒氏
2024.4 二度目の訪問です。 本宮(以前本殿があった場所)はここから徒歩5分〜10分の場所にあります。 切り返しも難しい道なので車はこちらに停めてから歩いてください。 【御祭神】 豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト) (またの名を豊国主尊 トヨクニヌシノミコト) 天明玉命(アメノアカルタマノミコト) 稚日女尊(ワカヒルメノミコト) 日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 【由緒】 比々多神社の歴史は古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、約1万年以上遡(さかのぼ)ることができるそうです。 「社伝記」(天保5年・1834年)によると、御鎮座は神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選び神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山を神体山として豊斟渟尊を日本国霊(にほんこくれい)として祀ったことにはじまるといわれています。 南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は今の約4倍・17,000坪)の大部分を失いました。また、明応年間(1492〜1501)には、社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ社地を埒面(現在は本宮)から現在の地(旧神主屋敷)に移転し神さまを遷しました。 明治6年(1873)、社格を2大区6小区の郷社と定められ、16ヶ村の総鎮守となりました。明治41年(1908)、神饌幣帛供進社に指定されました。 現在は、献幣使参向(けんぺいしさんこう)指定神社に定められ、事始めの大神さまとして、近隣はもとより広く関東一円の人々より篤く崇敬されています。
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2018/04/19(木曜日)に今年最初の聖峰にハイキングした帰りに参拝して来ました。 4月22日に例大祭があるので神社関係者は大忙しのようでした! 社務所脇の駐車場には祭礼の提灯が架かっていました。 2018/01/03(水曜日)に心の氏神様に初詣の参拝しました。 毎年本社前に干支の置物が出されます。 今年は戊戌(つちのえ・いぬ)年で可愛い「ワンコ」が参拝客を本社前で迎えてくれています。 所で五行思想(ごぎょうしそう)では大いなる繁栄を意味する十干「(じっかん)甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の5番目の戊ですが、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」にあたり、滅亡を意味します。 十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の「戌」(いぬ・じゅつ)は、生命の成長サイクルの11番目で枯れた木を表し、終焉・滅亡・終わりを意味しているそうで、そこから派生したのが、後に「滅」という字も生まれました。 戌は陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。 この様に陰陽道における「陽の土」が重なり合う「比和(ひわ)」という関係の年である。この同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。 その威力は最大限に強くなり、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にあるそうです。 2017/12/10に聖峰登山に行く途中、安全祈願で拝殿。初めて比々多神社の御朱印を頂きました。 境内拝殿前で七五三の家族ずれの写真撮影で随分と賑やかで私は邪魔をしないように撮影が終るまで待ちました(笑!) 子供の頃から境内で遊んでいた心の氏神様。 毎年4月22日春の例大祭です。 例大祭には3台のカラクリ山車が巡行(東名高速が出来てからは神戸までは行けなくなりました)栗原村「熊谷直実」、比々多村「加藤清正」、?村「仁木弾正」。神輿は、昔は21日の「動座祭」に本社を降りて神戸で一夜を明かし翌日に本社に戻ったが、今は1日で巡行している様です?。 ◇御祭神 神倭伊波禮彦命(かむやまといわれびこのみこと) ◇相 殿 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)、稚日女尊(わかひるめのみこと)、天明主命、日本武尊、大酒解神(さかとけのかみ)(大山祇神)、小酒解神(こさかとけのかみ)(木花開邪姫神) 境内社 秋葉神社等 ◇祭 日 節分追儺祭(せつぶんついなさい)2月3日、例祭4月22日、国府祭(こうのまち)5月5日(中郡二宮町川匂神社に於いて) ◆比々多神社の由緒 比々多神社の創建年代は不詳ですが、神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられ、大化元年(645)木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納、酒解神を合祀し、うずら瓶(県重要文化財)を奉納したといい、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定される古社で、相模国三宮です。室町時代には戦災により荒廃したものの、天正19年徳川家康より社領10石の朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していました。 ◆新編相模国風土記稿による比々多神社の由緒 (三之宮村)三宮明神社 當村及び栗原・神戸・白根四村の鎮守なり。當社は當国第三ノ宮にして「神名帳」に載る所、郡中四座の一、比々多神社なりと云傳ふ、華表に比々多神社と扁し、拝殿に三宮大明神の額を掲ぐ、按ずるに上糟屋村子易明神社も、式内比々多神社なる由云傳ふれど、両社共考證なく、是非辨じ難し、當社神主の話に、比々多神社と書せる古額ありしを、子易明神神主某に貸与へしが、終に返さずして、後彼社に比々多神社の額を掲げ、式社なる由稱せりと云、是も正き證はなし、祭神豊国主尊、天明玉命、稚日霊女尊の三座にして、大酒解神、小酒解神を相殿に祀る、神体秘して開扉せず、建久三年八月将軍頼朝夫人平産の祈として神馬を奉納せらる。東鑑曰、八月九日、御臺所音産気相模国神社佛寺被修誦経三宮冠大明神。社傳記、天保五年、神主兵部忠記の記なり、を閲するに、當社鎮座の地を往古比々多郷と唱へし故、此神號あり、又當国惣社を以て、中古は三之宮冠大明神、按ずるに東鑑に此神號を記す、を號す。古は社領若干ありしが、今近隣神戸村の唱へあるは、當社封戸たりし遺名なりと云、明應の頃より屢兵火に罹り、神領を失ひ、社人供僧等も離散して社頭甚衰微す。天正の始に至り、社地を今の地に移し、舊地は今の社地の北に続き、字埒免と唱ふる所なり、小社を造立して遷座す。十九年十一月社領十石を附せられ、御朱印を賜りしより、社頭漸く舊に復せりと云、此餘往古の事を記したれど、国史及び東鑑等に露顕せし惣国の神社に係りしことを、枚挙して當社の事とせり、尤此社も古社なれば、其事に輿りしもあるべけれど、其證なければ爰に採らず。又社頭の鐘銘には天平年中、鎌倉鎮将太郎太夫時忠の靈を祀りしとあり。曰、三宮大明神、本地慈悲不動明王霊場也、夫所謂宮地始者、聖武天王御宇、天平年中、當所占地、封建玉宮安置鎌倉鎮将太郎太夫時忠尊影、奉崇敬三宮大明神云々、別當福智山能満寺住持、傳法沙門執翁宗佛銘、神主大貫図書吉次、按ずるに、當時能満寺別当たりし事、寺にては傳へず。按ずるに、大山縁起に僧良辨を當国の良将、染谷太郎太夫時忠と記せり。是同人なるが、但此鐘銘延宝四年撰する所にして、今の社傳と大に異なり、尤信用しがたし。 例祭毎年五月五日。大祭と稱す、此日暁天より所々に篝火を焼、神主禰宜等供奉して、神輿を兒ぎ舊の社地邊を過り、神戸村に至り、化粧塚の上にて注連戸帳等を飾り、串橋村へ渡し、夫より通行の村々の民、其堺にて送迎し、金目村に暫く休憩して淘綾郡国府本郷町神揃山に到る、此時六所の宮の禰宜、異様の衣冠にて馬に騎り、途中に来て神輿を迎ふ、是を在聴と唱へり。一宮より五宮迄の神輿、神揃山に来て祭儀あり、帰輿の時は大綱二條、小綱二條を神輿に結付、山川田畑の嫌ひなく、道なき所を兒超ゆるを例とす、此日近郷より見物の者群をなせり。 六月十六日。小祭と唱ふ。此日祈願ある者、木綿の幟を納む、疫病流行の時、此幟を家内に建置ば、必ず其難を遁ると云。 拝殿・神楽殿等あり。 神寳。 木犬二軀。共に高さ一尺三寸餘、全体木理をあらはし至て古色なり、往古の國司布施朝臣布智が納めし物と云傳ふ。 甕一口。鶴亀と名付口直径六寸八分高一尺五分、石疑姥命作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験ありと云、其図上に出す。 古瓦一枚。扇形にて日の丸の紋あり、長五寸八分横九寸八分、布目あり、是舊の社地より堀得しと云、図左の如し。 鐘楼。延宝四年の鐘を懸。 末社。神明、金毘羅、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。 神木松樹二株。一は囲一丈八尺、一は一丈二尺、あり。 神職大貫左近。地々に住す。白川家の配下なり、祖先図書安重、明暦年中死、より十代相続せり。(新編相模国風土記稿より) ◆境内掲示による比々多神社の由緒 神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられる。崇神天皇の御代神地神戸を奉られ大化元年(645)社殿修復の際、木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納又此年に酒解神を合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。天平十五年(七四三)大宮司に竹内宿禰の後孫紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜う。真田を称す。天長九年(八三二)六月国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模国の惣社として冠大明神の神号を奉られた。鎌倉時代にはいり将軍源頼朝が文治元年(一一八五)に国土安泰の御願書を奉り、建久三年(一一九二)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。南北朝室町時代に戦さに巻込まれ神領の大半を失い衰微したが徳川時代当社が相模国の名社であることを知った家康公より社領を新に寄進され以下十四代将軍まで続いた。よって社運も持直し、明治時代には、社格は 社とし社格制度廃止後指定神社となる。(境内掲示より) 郷土博物館 昭和28年、先代の永井参治宮司によって設立された郷土博物館は、伊勢原の歴史を調べる人々にとって、欠かすことのできない施設となっている。古代の伊勢原の文化発祥地とされる比々多神社周辺には、昭和の初め、360基を超える古墳があったといわれる。以来、数多くの発掘調査が行なわれ、そもそも、その貴重な出土品資料の散逸を防ぐ目的で、当博物館は開設されたのである。 博物館には、付近から出土した縄文式・弥生式の土器等の考古資料の他、中世から江戸時代にかけての古文書、絵図等が、多数保存展示されている。 その2000点にも及ぶ所蔵品のなかには、県重要文化財の「うずらみか」 (昭和31年指定) と呼ばれる須恵器甕、市重要文化財の狛犬一対 (昭和52年指定) ・金銅単竜環柄頭 (昭和57年指定) 等の文化財も含まれている。
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平日の正午直前に到着。朝8時から17時迄となります。🅿️は二ヶ所あり、正面鳥居右側と正面鳥居前を通過した奥の左側にあり無料です。鳥居右側の🅿️は10台程度停められました。鳥居くぐりますと右側に手水舎、生花が生けてありチョロチョロと流れ出ている水で洗心しました。鳥居左側には比々多神社由来案内があります。さて境内はこぢんまりしているのにとても荘厳です。静寂な中で参拝となりました。本殿前はなんと干支である卯の像が左右に鎮座。本殿も程好く拝見出来、本殿右手前の社務所にて御守授与させて戴きました、確か500円からの授与です。御朱印は平日だからなのか、社務所では無く鳥居右側🅿️隣の事務所?にてコロナ禍の為書き置きにて対応されており、500円からの授与です。お手洗い🚻は本殿と社務所の間にあり男女と身障者用もありました。清掃は行き届いており、女性側は洋式ウォシュレットタイプが三器です。コイン式ではありませんが、清潔等維持の為の御寄付柱がありました。元宮が本殿裏手とありましたので折角ですから伺ってみることに。事務所前(社務所裏)の、少し上り坂の小路を歩いていきますとちょっとした林の小路を通ることとなります。入口右手には干支の像が鎮座していて、本殿前の阿吽像はこちらなのかと合点。林の出口付近左側には古墳跡もありました。林を抜けると登り坂の畑一面。見た目はそうでもありませんが実際上がって行きますと足腰に来る辛さ。。最後の三分くらいが一番キツい登りです、必ず参拝にはシューズで。ヒールのある靴は向きません。10分程度登った右手奥に元宮があります。元々はこちらだった比々多神社。渡る風すら下界とは違う感じは気のせいでしょうか。。。皆さんの口コミ通り、元宮付近からの眺めは素晴らしいものです。八幡さまや寒川さまも素晴らしいですが、こちらの雰囲気、とても気に入ってしまいました。伊勢原巡りの際はぜひ。余談ですが授与品の案内を左側から。ランドセル型の鈴になっています学業御守は、確か黒青緑水色赤ピンク黄色の7色あったか、、とイチオシの鈴御守で大人も欲しくなる可愛さ。キューピーさんの子ども御守、スナップタイプの二輪車御守、流鏑馬柄の勝守は二色ありました、交通安全御守も紺色との二色あり、特製甘酒飴はほんのり甘さがたまらなく200円。左上のピンクうさぎは干支みくじ500円、金色の干支土鈴、わたしは初めて出会った神社ものしりトランプはメチャクチャ新鮮です、最後は開運干支かわらけになります。三ノ宮とは思えない授与品の一部でした。
えーち

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2024.4 二度目の訪問です。 本宮(以前本殿があった場所)はここから徒歩5分〜10分の場所にあります。 切り返しも難しい道なので車はこちらに停めてから歩いてください。 【御祭神】 豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト) (またの名を豊国主尊 トヨクニヌシノミコト) 天明玉命(アメノアカルタマノミコト) 稚日女尊(ワカヒルメノミコト) 日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 【由緒】 比々多神社の歴史は古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、約1万年以上遡(さかのぼ)ることができるそうです。 「社伝記」(天保5年・1834年)によると、御鎮座は神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選び神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山を神体山として豊斟渟尊を日本国霊(にほんこくれい)として祀ったことにはじまるといわれています。 南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は今の約4倍・17,000坪)の大部分を失いました。また、明応年間(1492〜1501)には、社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ社地を埒面(現在は本宮)から現在の地(旧神主屋敷)に移転し神さまを遷しました。 明治6年(1873)、社格を2大区6小区の郷社と定められ、16ヶ村の総鎮守となりました。明治41年(1908)、神饌幣帛供進社に指定されました。 現在は、献幣使参向(けんぺいしさんこう)指定神社に定められ、事始めの大神さまとして、近隣はもとより広く関東一円の人々より篤く崇敬されています。
齒氏

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2018/04/19(木曜日)に今年最初の聖峰にハイキングした帰りに参拝して来ました。 4月22日に例大祭があるので神社関係者は大忙しのようでした! 社務所脇の駐車場には祭礼の提灯が架かっていました。

2018/01/03(水曜日)に心の氏神様に初詣の参拝しました。 毎年本社前に干支の置物が出されます。 今年は戊戌(つちのえ・いぬ)年で可愛い「ワンコ」が参拝客を本社前で迎えてくれています。 所で五行思想(ごぎょうしそう)では大いなる繁栄を意味する十干「(じっかん)甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の5番目の戊ですが、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」にあたり、滅亡を意味します。 十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の「戌」(いぬ・じゅつ)は、生命の成長サイクルの11番目で枯れた木を表し、終焉・滅亡・終わりを意味しているそうで、そこから派生したのが、後に「滅」という字も生まれました。 戌は陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。 この様に陰陽道における「陽の土」が重なり合う「比和(ひわ)」という関係の年である。この同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。 その威力は最大限に強くなり、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にあるそうです。

2017/12/10に聖峰登山に行く途中、安全祈願で拝殿。初めて比々多神社の御朱印を頂きました。 境内拝殿前で七五三の家族ずれの写真撮影で随分と賑やかで私は邪魔をしないように撮影が終るまで待ちました(笑!)

子供の頃から境内で遊んでいた心の氏神様。 毎年4月22日春の例大祭です。 例大祭には3台のカラクリ山車が巡行(東名高速が出来てからは神戸までは行けなくなりました)栗原村「熊谷直実」、比々多村「加藤清正」、?村「仁木弾正」。神輿は、昔は21日の「動座祭」に本社を降りて神戸で一夜を明かし翌日に本社に戻ったが、今は1日で巡行している様です?。

◇御祭神 神倭伊波禮彦命(かむやまといわれびこのみこと) ◇相 殿 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)、稚日女尊(わかひるめのみこと)、天明主命、日本武尊、大酒解神(さかとけのかみ)(大山祇神)、小酒解神(こさかとけのかみ)(木花開邪姫神) 境内社 秋葉神社等 ◇祭 日 節分追儺祭(せつぶんついなさい)2月3日、例祭4月22日、国府祭(こうのまち)5月5日(中郡二宮町川匂神社に於いて)

◆比々多神社の由緒 比々多神社の創建年代は不詳ですが、神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられ、大化元年(645)木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納、酒解神を合祀し、うずら瓶(県重要文化財)を奉納したといい、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定される古社で、相模国三宮です。室町時代には戦災により荒廃したものの、天正19年徳川家康より社領10石の朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していました。

◆新編相模国風土記稿による比々多神社の由緒 (三之宮村)三宮明神社 當村及び栗原・神戸・白根四村の鎮守なり。當社は當国第三ノ宮にして「神名帳」に載る所、郡中四座の一、比々多神社なりと云傳ふ、華表に比々多神社と扁し、拝殿に三宮大明神の額を掲ぐ、按ずるに上糟屋村子易明神社も、式内比々多神社なる由云傳ふれど、両社共考證なく、是非辨じ難し、當社神主の話に、比々多神社と書せる古額ありしを、子易明神神主某に貸与へしが、終に返さずして、後彼社に比々多神社の額を掲げ、式社なる由稱せりと云、是も正き證はなし、祭神豊国主尊、天明玉命、稚日霊女尊の三座にして、大酒解神、小酒解神を相殿に祀る、神体秘して開扉せず、建久三年八月将軍頼朝夫人平産の祈として神馬を奉納せらる。東鑑曰、八月九日、御臺所音産気相模国神社佛寺被修誦経三宮冠大明神。社傳記、天保五年、神主兵部忠記の記なり、を閲するに、當社鎮座の地を往古比々多郷と唱へし故、此神號あり、又當国惣社を以て、中古は三之宮冠大明神、按ずるに東鑑に此神號を記す、を號す。古は社領若干ありしが、今近隣神戸村の唱へあるは、當社封戸たりし遺名なりと云、明應の頃より屢兵火に罹り、神領を失ひ、社人供僧等も離散して社頭甚衰微す。天正の始に至り、社地を今の地に移し、舊地は今の社地の北に続き、字埒免と唱ふる所なり、小社を造立して遷座す。十九年十一月社領十石を附せられ、御朱印を賜りしより、社頭漸く舊に復せりと云、此餘往古の事を記したれど、国史及び東鑑等に露顕せし惣国の神社に係りしことを、枚挙して當社の事とせり、尤此社も古社なれば、其事に輿りしもあるべけれど、其證なければ爰に採らず。又社頭の鐘銘には天平年中、鎌倉鎮将太郎太夫時忠の靈を祀りしとあり。曰、三宮大明神、本地慈悲不動明王霊場也、夫所謂宮地始者、聖武天王御宇、天平年中、當所占地、封建玉宮安置鎌倉鎮将太郎太夫時忠尊影、奉崇敬三宮大明神云々、別當福智山能満寺住持、傳法沙門執翁宗佛銘、神主大貫図書吉次、按ずるに、當時能満寺別当たりし事、寺にては傳へず。按ずるに、大山縁起に僧良辨を當国の良将、染谷太郎太夫時忠と記せり。是同人なるが、但此鐘銘延宝四年撰する所にして、今の社傳と大に異なり、尤信用しがたし。 例祭毎年五月五日。大祭と稱す、此日暁天より所々に篝火を焼、神主禰宜等供奉して、神輿を兒ぎ舊の社地邊を過り、神戸村に至り、化粧塚の上にて注連戸帳等を飾り、串橋村へ渡し、夫より通行の村々の民、其堺にて送迎し、金目村に暫く休憩して淘綾郡国府本郷町神揃山に到る、此時六所の宮の禰宜、異様の衣冠にて馬に騎り、途中に来て神輿を迎ふ、是を在聴と唱へり。一宮より五宮迄の神輿、神揃山に来て祭儀あり、帰輿の時は大綱二條、小綱二條を神輿に結付、山川田畑の嫌ひなく、道なき所を兒超ゆるを例とす、此日近郷より見物の者群をなせり。 六月十六日。小祭と唱ふ。此日祈願ある者、木綿の幟を納む、疫病流行の時、此幟を家内に建置ば、必ず其難を遁ると云。 拝殿・神楽殿等あり。 神寳。 木犬二軀。共に高さ一尺三寸餘、全体木理をあらはし至て古色なり、往古の國司布施朝臣布智が納めし物と云傳ふ。 甕一口。鶴亀と名付口直径六寸八分高一尺五分、石疑姥命作と云傳ふ、旱魃の時は此器に水を盛り神前に供して雨を請ひ、又霖雨の時は社地四隅の土を盛りて晴を祈るに験ありと云、其図上に出す。 古瓦一枚。扇形にて日の丸の紋あり、長五寸八分横九寸八分、布目あり、是舊の社地より堀得しと云、図左の如し。 鐘楼。延宝四年の鐘を懸。 末社。神明、金毘羅、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。 神木松樹二株。一は囲一丈八尺、一は一丈二尺、あり。 神職大貫左近。地々に住す。白川家の配下なり、祖先図書安重、明暦年中死、より十代相続せり。(新編相模国風土記稿より)

◆境内掲示による比々多神社の由緒 神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられる。崇神天皇の御代神地神戸を奉られ大化元年(645)社殿修復の際、木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納又此年に酒解神を合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。天平十五年(七四三)大宮司に竹内宿禰の後孫紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜う。真田を称す。天長九年(八三二)六月国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模国の惣社として冠大明神の神号を奉られた。鎌倉時代にはいり将軍源頼朝が文治元年(一一八五)に国土安泰の御願書を奉り、建久三年(一一九二)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。南北朝室町時代に戦さに巻込まれ神領の大半を失い衰微したが徳川時代当社が相模国の名社であることを知った家康公より社領を新に寄進され以下十四代将軍まで続いた。よって社運も持直し、明治時代には、社格は 社とし社格制度廃止後指定神社となる。(境内掲示より)

郷土博物館 昭和28年、先代の永井参治宮司によって設立された郷土博物館は、伊勢原の歴史を調べる人々にとって、欠かすことのできない施設となっている。古代の伊勢原の文化発祥地とされる比々多神社周辺には、昭和の初め、360基を超える古墳があったといわれる。以来、数多くの発掘調査が行なわれ、そもそも、その貴重な出土品資料の散逸を防ぐ目的で、当博物館は開設されたのである。 博物館には、付近から出土した縄文式・弥生式の土器等の考古資料の他、中世から江戸時代にかけての古文書、絵図等が、多数保存展示されている。 その2000点にも及ぶ所蔵品のなかには、県重要文化財の「うずらみか」 (昭和31年指定) と呼ばれる須恵器甕、市重要文化財の狛犬一対 (昭和52年指定) ・金銅単竜環柄頭 (昭和57年指定)...

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平日の正午直前に到着。朝8時から17時迄となります。🅿️は二ヶ所あり、正面鳥居右側と正面鳥居前を通過した奥の左側にあり無料です。鳥居右側の🅿️は10台程度停められました。鳥居くぐりますと右側に手水舎、生花が生けてありチョロチョロと流れ出ている水で洗心しました。鳥居左側には比々多神社由来案内があります。さて境内はこぢんまりしているのにとても荘厳です。静寂な中で参拝となりました。本殿前はなんと干支である卯の像が左右に鎮座。本殿も程好く拝見出来、本殿右手前の社務所にて御守授与させて戴きました、確か500円からの授与です。御朱印は平日だからなのか、社務所では無く鳥居右側🅿️隣の事務所?にてコロナ禍の為書き置きにて対応されており、500円からの授与です。お手洗い🚻は本殿と社務所の間にあり男女と身障者用もありました。清掃は行き届いており、女性側は洋式ウォシュレットタイプが三器です。コイン式ではありませんが、清潔等維持の為の御寄付柱がありました。元宮が本殿裏手とありましたので折角ですから伺ってみることに。事務所前(社務所裏)の、少し上り坂の小路を歩いていきますとちょっとした林の小路を通ることとなります。入口右手には干支の像が鎮座していて、本殿前の阿吽像はこちらなのかと合点。林の出口付近左側には古墳跡もありました。林を抜けると登り坂の畑一面。見た目はそうでもありませんが実際上がって行きますと足腰に来る辛さ。。最後の三分くらいが一番キツい登りです、必ず参拝にはシューズで。ヒールのある靴は向きません。10分程度登った右手奥に元宮があります。元々はこちらだった比々多神社。渡る風すら下界とは違う感じは気のせいでしょうか。。。皆さんの口コミ通り、元宮付近からの眺めは素晴らしいものです。八幡さまや寒川さまも素晴らしいですが、こちらの雰囲気、とても気に入ってしまいました。伊勢原巡りの際はぜひ。余談ですが授与品の案内を左側から。ランドセル型の鈴になっています学業御守は、確か黒青緑水色赤ピンク黄色の7色あったか、、とイチオシの鈴御守で大人も欲しくなる可愛さ。キューピーさんの子ども御守、スナップタイプの二輪車御守、流鏑馬柄の勝守は二色ありました、交通安全御守も紺色との二色あり、特製甘酒飴はほんのり甘さがたまらなく200円。左上のピンクうさぎは干支みくじ500円、金色の干支土鈴、わたしは初めて出会った神社ものしりトランプはメチャクチャ新鮮です、最後は開運干支かわらけになります。三ノ宮とは思え...

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比々多神社(ひびたじんじゃ)。神奈川県伊勢原市三ノ宮。

式内社(小)、相模国三宮。旧郷社。 古くは「冠大明神」とも称した。旧相模国最古級の神社。 所在地名の「三ノ宮」は当社にちなみ、古くより「三ノ宮さま」とも呼ばれている。

主祭神:豊国主尊、天明玉命、雅日女尊、日本武尊 相殿神:大酒解神(おおさかとけのかみ、大山祇神)、小酒解神(こさかとけのかみ、木花咲耶姫) 【関係氏族】橘氏

資料によると、 天保5年(1834年)に書かれた『比比多伝記』によれば、当社は神武天皇の天下平定の際に、人々を護るために建立されたとしている。『比々多神社 参拝の栞』によれば、これは神武天皇6年のことで、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。

一方、境内および近隣から発掘された遺跡遺物から、縄文時代中期の環状配石中にある立石が祭祀遺跡と推定されている。神社側は、当社の淵源は1万年以上前の縄文の原初的な山岳信仰にまで遡ると推定され、東日本最古級の神社となる可能性があるとしている。当社は大山の東南山麓に鎮座しているが、『日本の神々 -神社と聖地- 11...

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