フルスト原遺跡は、古くはブスヤマ(武士山)、ブスヤシキ(武士屋敷)と称され、八重山の英雄・遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)の城塞跡と伝承されてきた。 オヤケアカハチがアカハチの乱に敗れたことで、アカハチは反逆者の汚名を着せられることになり、フルスト原遺跡は長年顧みられることがなく、荒廃したまま放置されていた。 しかし、戦後になって、石灰岩の採取のためにフルスト原遺跡の一部が業者によって破壊されたことで、にわかに地元の人々の関心が高まった。
1975年、石垣市文化財保護審議委員を中心に調査が行われ、城郭跡、居住跡、古墳群などが確認され、おびただしい量の中国系青磁器片、陶磁器片などが出土した。これにより、遺跡の保護措置を講じる気運が高まり、1978年、国の史跡に指定された。
武士山、武士屋敷などという伝承があることから、アカハチの城というイメージが強く、沖縄の歴史書「球陽」にも、「アカハチ領衆兵背嶮岨面大海布擺陣勢」(アカハチは険阻な山を背にして海に面して陣を敷いた)と記録され、アカハチが治めていた大浜(今の大浜町)に合致する地形がここにしかないことから、アカハチの乱の際にアカハチが居城としていた可能性は高い。しかし、近年の発掘により、遺跡の設立年が14世紀にまで遡ることから、アカハチがアカハチの乱によって建設した城ではなく、昔からの大浜周辺に住む人たちの拠点に過ぎないことが分った。 宮古島の遺跡などからは武器が大量に発掘されているが、石垣の遺跡からは武器はほとんど発掘されていない。恐らく、フルスト原遺跡は「城」ではなく、ただの「集落」だったのではないか。
なお、フルスト原遺跡の「ふるすとばる」という地名の由来についてはよく分っていない。 一説として、オヤケアカハチのことを八重山在地資料(八重山嶋由来記、八重山嶋年来記等)では、「堀川原」(ホンカワラ)と「赤蜂」(アカハチ)の二つの呼び方が併記されており、この「堀川原」を草書体で書くと川の字が外の字に似ていることから、「堀外原」(ほりそとはら)が「ふるすとばる」に訛ったのではないかと言われている。 ホンカワラという呼び方については、オヤケアカハチの兄弟や子供、大浜での首領名など、いろいろ説があるが現...
Read moreRemains of an old village: buildings have disappeared but walls that surrounded each house remain or were reconstructed. Sometimes, archeological diggings occur. Basically, no explanations and or guides. No entrance fee, little difficult to find but...
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