常陸國總社宮 所在地 石岡市総社二丁目八番
常陸國總社宮は大宝令に制定された神祇官に相当するもので、神祇の祭祀を掌り国内の諸社を総管した神社である。 古くは国衙の近くに設けられ、国府の宮と称されていたが、延喜年間(九〇一九二二)に天神地祇の六柱の神が祀られ、六所の宮と呼ばれるに至り、さらにその後、総社の名が使用され今日に至った。 社伝によると、始め国家鎮護の社として全国のうち、常陸・武蔵・ 甲斐・駿河・長門・対馬の国府が選ばれ、常陸国府に第一創建あるべしの勅令により建てられたとある。 ◇大掾氏との関わり、 総社は、国内の諸社を総括したもので、国府との関係から大掾氏とも深い縁がある。 ◇エピソード~常陸總社文書と大掾氏 總社宮には、常陸總社文書という貴重な文書が残っており、県指定文化財となっている。 この文書は治承3年(一一七九)から、天保年間に至る中世及び近世の文書で。 あり、源頼朝挙兵の前年(治承3年)の文書、永仁5年の徳政令に関する文書など、 資料価値の高い文化財で50通が指定されている。 その中には大據氏に関する記述も見られ「總社敷地田畠坪付注文断簡」には、第 12代時幹の名が見られ、總社敷地に対する知行権を有している様子などがわかる。
市指定有形文化財(建造物) 常陸國總社宮本殿 平成十七年四月十四日指定 總社宮本殿の特徴のひとつに、内陣と外陣間仕切りの桟唐戸の仕様がある。 観音開きの様唐戸で、普段見る機会のない扉である。 現状は、赤漆塗り仕上げで、その上に...
Read more御祭神は伊弉諾尊・素盞嗚尊・瓊々杵尊・大國主尊・大宮比賣尊・布留大神。社伝によれば,創建は天平年間(729-749)に勅命により天神地祇六柱を国内六府の地に勧請合祀したとされます。ここ石岡は常陸国の国府(国衙)が置かれた地で,新任国司の最初の仕事はその國の一の宮(常陸國ですと鹿島神宮)から二の宮・三の宮と順々に回って神々に着任の挨拶をすることでした。高速道路が充分に敷設されていない(ついでに車もない)時代,これは大変な労力であったことから,平安時代末期頃(11世紀末~)からは「総社」を国衙の近くに造営して,まとめて神々に挨拶しちゃおうという「働き方改革」が諸国に広まっていったわけです。となると,天平年間の創建ではいささか疑問が生じますし,また,当初の社名が「国府の宮」で社地が現在の常陸国分尼寺跡付近だったのが,延喜年間(901-923)に「六所の宮(六所明神)」となって、天慶年間(938-947)に平詮国(大掾氏)が当地に築城した際に,当社を現社地に遷したという説もあったりで,どう考えるべきか複雑ですね。 その後,天正18(1590)年に府中城が佐竹義宣に攻められ大掾氏が滅亡した際には,戦乱を避けるため当社は市内・谷向の地に一時的に遷座。明治4年郷社に列格,同31年県社に昇格という押しも押されぬ大社です。 境内の実際の御様子は,あまりに有名社でありますため今更改めて書くまでもなく他の方の詳しいクチコミ...
Read more常陸國の総社です。私の地元で縁(ゆかり)があり、とても歴史のある神社です。 駐車場はありますが、宮下方面から登って行かないと細道のクランクが待ち受けております。笑 駐車場から境内へショートカット出来ますが、個人的には石岡小学校裏の正面入口から鳥居をくぐってもらいたいです。 そこからはもう別世界。 神妙な雰囲気に包まれます。 襟が正されると言うか、優しい感じと言うか言葉に出来ない雰囲気です。 生粋の神社マニアの方もビギナーの方もきっとこの場所を気に入ると思います。
中にはヤマトタケルノミコトが腰掛けたと言われる石がおいてあったり、複数の末社があったり、裏手に水が湧いていたりと見所が沢山あります。 一年の中で一番盛り上がるイベントはお祭り。9月に行われる[石岡のお祭り]です。 この時と初詣時期は人で溢れますが、それ以外であればほとんど人はおりません。
御朱印の対応もして頂けます。 達筆で素晴らしい御朱印です。 限定の御朱印帳はジャングル大帝(手塚治虫)とコラボしており、大変な人気があります。が、転売されたりと悲しい現実があります。(※辞めてくださいね!) 普段の御朱印帳は獅子と全国総社会の二種類です。 また、お守りの数も豊富です。
悩んだときも、幸せなときも是非、足を運んでみてください。 きっと素朴な...
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