【当史跡】(ヒタチコクフアト)は、石岡市立石岡小学校の区画に所在するが、かつては大掾氏の府中城、そして常陸府中(石岡)藩陣屋と連綿として歴史の主役として存在したが、霞ヶ浦が日本という統一国家を確立していく過程において外洋の太平洋から遮断されるとともに、その存在価値が変質して地盤低下することとなった。 当史跡は、平成10年度から18年度までの発掘調査により発見された。この始まりは、今から約1300年前の7世紀末頃。その後も同じ場所で11世紀頃まで、約300年間機能していたと考えられ、国庁の誕生から消滅までを通史的に見ることができ、国庁のほぼ全容が確認された例は極めて少なく、全国的にも大変貴重な遺跡と言えるようだ。 そして、今は児童が駆け回る中で小学校敷地の地下に静かに眠り、今に生きる人々に歴史を伝えるという裏方に徹している。 【所在地】は、茨城県石岡市総社1丁目2-10(〒315-0016)である。 【歌碑】(遷任別離の歌)が、下記の刻文とともに常陸国府跡石碑の側に立っている。 藤原宇合(フジワラノウマカイ)大夫遷任して京に上る時常陸娘子の贈る歌一首 「庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を忘れたまふな」 この書家はどんな意図をもって三十一文字の最後の「な」を改行したのか?。藤原不比等の三男で藤原四家の一つ式家の始祖である宇合ならば京の都に戻れば高貴な女達に囲まれることが分かるので、そんな宇合の姿を三十文字(三行)で表し、そうなってくれるなとの気持ちを際立たせるために「な」の一文字を次の行に離したのだろうか!?。 【藤原】と言えば、「源平藤橘」の語句に代表される日本人の名字の代表格である。藤原氏は、中臣氏が賜姓されたものである。中臣氏と鹿島神宮との密接な関係は、藤原氏の氏神である春日大社の第一殿に鹿島神宮の武甕槌命が分祠されていることに代表されるように既知であるが、常陸国府においても深い関係があるのには驚きを隠せない。 【コロナ】対策は、屋外施設なので、特に対策は講じられていない。 【接道】は、国道355号線の信号機の「国府三丁目」と「中町国府3丁目」の間の信号機から西(土橋通り)に入り道なりに進むと、「常陸府中(石岡)藩陣屋門」に突き当たるので、左折すると右手に「ふるさと歴史館」の案内表示が見えてくる。 【駐車場】は、石岡小学校敷地の東口の右側に駐車スペース(ふるさと歴史館併用)が確保されている。未整備状態であるので、駐車に際しては学校関係者等に配慮するのが望まれる。 【トイレ】は、常陸国府跡としての専用のものを整備されていないが、「石岡市立ふるさと歴史館」が石岡小学校校舎の東側にあるので、当施設のトイレ...
Read more常陸国府跡の看板には以下の説明が書いてありました。
国指定史跡 常陸国府跡 所在地 石岡市総社1丁目11番 常陸国衙の成立は、8世紀初頭前後である。国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していた。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や倉庫群などさまざまな建物があった。昭和48年,...
Read more2024年12月28日に見学しました。 常陸国衙は、8世紀初頭前後には成立していたと思われ、発掘調査により国庁跡であることも判明しました。多珂、久慈、那賀、新治、白壁、筑波、河内、信太、茨城、行方、鹿島の11郡の郡衙を統括していました。在庁官人のトップのポストは、常陸大掾であり、役職を世襲した平氏は、やがて大掾氏を名乗るようになります。 国造制から律令制に変遷する過程を考えるうえで、大変重要な場所だと思います。 更に時代が下れば、藤原玄明が原因となった常陸国府合戦へとつなが...
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