Large temple grounds though unfortunately most of it was under snow when we visited so couldn't really explore
The goshuin is in the head priests house that is beside the temple - he heard us when we entered the genkan and greeted us kindly and offered to write in the date on our goshuin for...
Read more居多神社は持統天皇の時代(687年から697年)の神代の古跡と伝えられてます。 平安時代の弘仁4年(813)年7月には従五位下を、貞観3年(861)8月3日には従五位上を授かり越後国一の宮としての地位を得たようです。延長5年(927)の延喜式神名帳に官社として記載されてます。 鎌倉時代初期の承元元年(1207)2月、後鳥羽上皇の専修念仏の停止により越後国府(上越市直江津地区)へ流罪となった親鸞が居多神社に参拝したといいます。 南北朝時代の貞和3年(1347)に室町幕府から社殿修造費として田井保(上越市板倉区)を、観応2年(1351)には越後国守護・上杉憲顕から荒蒔保(同市清里区)を保司分として社領を授かりました。以降、越後国守護・上杉氏と守護代・長尾氏の厚い保護を受けて栄えました。 室町時代の文明18年(1486)に京都の常光院の僧侶が、長享2年(1488)には相国寺の僧侶・万里集九が居多神社を参拝してます。 戦国時代の天文2年(1533)には越後国守護上杉氏の一族・上条定憲が居多神社の社殿を焼き払いましたが、越後国守護代長尾為景(上杉謙信の父)が同社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営をしました。 安土桃山時代の天正6年(1578)3月13日に上杉謙信が死去。謙信の二人の養子である上杉景勝と景虎の後継者争い「御館の乱」では居多神社は景虎側に味方したため社殿が焼失して、神主である花ケ前家は能登国・越中国へと難を逃れ移転しました。 慶長3年(1598)に上杉景勝が越後国春日山から陸奥国会津へ移転となり、越前国北ノ庄から堀秀治が越後国春日山へ入ると居多神社も越後国へ帰国。明治12年(1879)に現...
Read moreReally cool shrine; one of the ichinomiya of Niigata Prefecture. Went to get my temple book signed, and it was a bit confusing; you need to go to the small house looking place when you first get into the...
Read more