勝山館(かつやまだて)は、北海道檜山郡上ノ国町にあった中世の日本の城(山城)。昭和52年(1977年)4月12日、「上之国館跡」のうちの一つ「勝山館跡」として国の史跡に指定された。
築城年代は不明だが、館北端にある館神八幡宮(たてがみはちまんぐう)の創建が文明5年(1473年)と伝えられているため、この頃の築城と推定されている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされていたが、光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として脇館転じて「和喜の館」と称され一族を配した。
夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する。さらに城の背後から山頂に向かって中世和人の墳墓群(夷王山墳墓群)が存在する。
戦後、夷王山墳墓群の調査が先行され、館そのものの本格的調査は昭和52年(1977年)の史跡指定後の昭和54年(1979年)になってからである。その結果、15世紀後期から16世紀後期にかけての陶磁器・金属器・漆器・骨角器など7万点におよぶ遺物が出土しており、主要な遺物921点が国の重要文化財に指定されている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(...
Read more説明文より①→東の厳重な守り 一帯郭と物見櫓一 勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。 道の両側に、広さ100~140㎡ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。 中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになっています(帯郭)。 堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。 館を守る兵が集まる 小屋かと思われます。 勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。
説明文より②→勝山館の後ろの守り 一神仏に守られてー 1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部は二つの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。 掘に架かる橋から続く道が館の中央を通り、 道の両側には住居などが建っていました。 一番高いところに館の守護神、 館神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが泥られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。 この近くからは、 ゴミ捨て場や井戸、池、...
Read more續100名城編號102,上之國城跡(勝山城跡)是位於北海道檜山郡上之國町的中世紀城堡遺址,是北海道南部十二座城堡中規模最大的重要遺址。 15 世紀時,日本軍事指揮官武田信広曾以此地為基地,並在日本對蝦夷(北海道)的影響力中發揮了核心作用。
勝山城是由武田信広於 15 世紀末建造的。 武田信広在安東氏(津輕地區的強大氏族)的支持下,渡海到達蝦夷,在與阿伊努人作戰後,控制了北海道南部地區。 勝山館是日本軍隊的政治、經濟和軍事中心,一直使用到 16 世紀末。
勝山館不僅是軍事基地,也是與中國和朝鮮進行貿易的基地。 從城堡遺址中出土了中國的青瓷和白瓷、韓國的陶器以及日本本土的瀨戶燒和常滑燒,顯示了當時貿易的程度。
16世紀末,權力中心轉移到松前(現在的松前町),勝山城不再具有城堡的功能並被廢棄。 這些建築隨後被拆除,今天僅剩下護城河、土方工程和透過挖掘調查發現的建築遺跡。
勝山城跡目前已開發為歷史公園,遊客可以邊散步邊了解勝山城的構造與歷史。 現場設有說明板,可輕鬆了解博物館的規模和功能。 此外,從春季到秋季還會舉辦遺址遊覽等活動。
原本的車站...
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