山号を小松原山と号し、大曼荼羅を御本尊とする日蓮宗の寺院で、弘安4(1281)年3月15日に小松原法難【文永元(1264)年11月11日、安房国東条郡(現・鴨川市)天津の信者で天津城主・工藤吉隆の招きに応じて弟子・信者と共に吉隆の屋敷へ向かっていた日蓮大聖人一行が、東条の郷・松原大路(小松原)に差し掛かった際に地頭・東条景信の軍勢に襲撃された事件】の地に殺害された工藤吉隆の子・日隆上人が開基、日蓮大聖人が開山となり妙隆山と号して建立、のちに殺害された鏡忍坊日暁の名に因み山号寺号が小松原山鏡忍寺に改号されました。本堂北東側に広大な駐車場あり、境内には数多くの歴史的価値の高い下記文化財が建立されます。 <報恩塔> ・法難六百五十年碑:東京小松原年澄会の寄進 ・七百遠忌塔:昭和56(1981)年に第42世・日闡の建立 ・六百五十遠忌塔:東条村・野村敏子の寄進、建立時期不明 ・六百遠忌塔:明治29(1896)年に第34世・日道の建立 ・五百五十遠忌塔:文政5(1822)年に第29世・日晃の建立 ・五百遠忌塔:安永9(1780)年に第27世・日源の建立 <小松原法難霊蹟碑> ・『小松原法難霊蹟』と銘刻された法難碑、第36世・日讃の揮毫、日蓮大聖人生誕700年を記念して東京竪川御旗講(東京墨田区本所)が明治38(1905)年に建立した。 <総門・仁王門> ・総門(山門):三間三戸様式の棟造り門 ・仁王門:十界曼荼羅を祀る2階部分を持ち、瓦屋根の下に長く飛び出た垂木、尾垂木等を持つ三間一戸様式の門 ・仁王像:昭和の名横綱で第35代横綱・双葉山(1912~1968年)をモデルにした金剛力士像で、竣工時に横綱当人がくぐり初めを実施した。 ・両門、石灯篭:第40世・日長が手掛け、昭和17(1942)年に竣工した。 <手洗鉢> ・文化元(1804)年に第28世・日辧により奉納された。 <日清・日露戦争記念碑、忠死者霊墓> ・日清・日露戦争記念碑:日清及び日露戦争の従軍者、予備役等25名及び97名の名が記されており、安房郡東条村恤兵会(じゅつぺいかい)が明治30(1897)年及び明治40(1907)年に建立した。 ・忠死者霊墓:日清・日露戦争、日支事変、大東亜戦争の戦死者133名の名が記されており、安房郡東条村恤兵会と遺族会が建立した。 <降神槙(こうじんのまき)> ・『降神の槙(鏡忍寺)』として、昭和51(1976)年4月28日に鴨川市の天然記念物に指定された。 ・日蓮大聖人一行が法難の際、樹上に鬼子母神(きしぼじん)が現れ、危うく難を逃れたと伝えられる槙、品格のある枝のしだれる樹形をした銘木で、推定樹齢1300年とも云われる。 <三尊・四祖の墓> ・三尊は開祖の日蓮大聖人・二祖の鏡忍坊日暁上人・三祖の妙隆院日玉上人(工藤吉隆)の3名、日蓮大聖人は鏡忍坊を当地に葬り、墓標として松を植え菩提を弔ったのが祖師堂前にある墓であり、17世・日普上人が日蓮・日玉の碑と共に整備した。 ・四祖は妙隆山開基の日隆上人で工藤吉隆の子、降神槙の後ろに墓あり。 <祖師堂> ・弘安4(1281)年に日隆上人の建立とされ、明和2(1765)年の再建中に地震に襲われ崩壊、明和6(1769)年8月の大嵐で崩壊、明和9(1772)年に竣工、現堂宇は平成19(2007)年に再建された。 ・外陣欄間三面を飾る七福神の彫刻と外面蟇股は、『初代・波の伊八』こと武志伊八郎信由(1751~1824年)の天明2(1782)年の作品と推定され、『鏡忍寺祖師堂の彫刻』として昭和52(1977)年5月27日に鴨川市の有形文化財(彫刻)に指定された。 <祖師堂大営繕碑> ・明治45(1912)年に36世・日讃上人の代が祖師堂大修繕を行い、有志・商人(飲食店・小間物・金物・桶屋・植木)による寄付の様子が記録され、市場商人によって建立された記念碑である。 <法難堂> ・日蓮大聖人は亡くなった鏡忍坊を葬り墓標として松を植えたが、明治35(1902)年9月28日の足尾台風で倒木、その木で日蓮大聖人の像を刻み法難の地に建立された法難堂に祀った。 ・平成23(2011)年に法難750年記念報恩のため改築、全国からの写経を納めている。 <鬼子母神堂> ・法華経信徒を擁護する鬼子母神を祀る江戸時代末期の建立とされる堂宇で、向拝に龍などの彫刻あり、『5代・波の伊八』こと武志伊八郎信月(1890~1954年)の銘刻がある。 <清正公堂> ・加藤清正像を祀る清正公堂は、江戸時代末期の建立とされる。 ・法華経に帰依した清正は、『慈悲と武勇の将』『治国の名君』とされ、常人と違う能力を持つ人物とされることから、所願成就の神として清正信仰が広がり、日蓮宗寺院に清正像が建立されている。 <仏殿(本堂)・庫裏> ・仏殿と客殿は江戸時代末期から明治初期、庫裏は昭和17(1942)年の建立と云われ、仏殿に『2代・波の伊八』こと武志伊八郎信常(1787~1852年)作とされる欄間彫刻がある。 ・明治維新時に花房藩知事・西尾忠篤が客殿を仮宿所として使用した。 <三十番神堂> ・三十番神は1ヶ月・30日の間、毎日交代で法華経の信者を守護する神様とされ、堂宇は昭和初期に建立された。 <歌碑・句碑> ・正岡子規の句碑『雉鳴くや背丈にそろふ小松原』の他に、当地訪問者や出身者など6種類の歌碑・句碑が石碑に銘刻される。 <鏡忍寺向唐門> ・『鏡忍寺向唐門』として、昭和53(1978)年7月24日に鴨川市の有形文化財(建造物)に指定された。 ・江戸時代初期から中期頃の建立とされ、茅葺の切妻造り・唐破風を持つ向唐門(朱雀門)という形式の門である。 <富木殿御書> ・文永11(1274)年に日蓮大聖人がはじめて身延山(甲斐国)に入山する際の様子を伝えた日蓮大聖人自筆の消息文で、昭和50年12月12日に千葉県の有形文化財(古文書)に指定された。 ・下総国中山(現市川市)の日蓮信者・富木常忍(日常上人)に宛てた書簡とされ、信仰の心構えなどを教え諭している。 ・この文書がかつて中山法華経寺(市川市)に所蔵されていたことは、永仁7(1299)年に日常上人(富木常忍)によって記された『常修院本尊教事』及び康永3(1344)年に日祐上人によって記された『本尊聖教録』に記録されているが、以降どのような経緯で『富木殿御書』が鏡忍寺に...
Read more鏡忍寺は、日蓮大聖人の弟子の鏡忍坊の遺徳を偲び名付けられたお寺である。この場所は、かつて日蓮大聖人の10人の一行が、当時法華経の説法の拠点としていた花房の蓮華寺より天津にある工藤吉隆の居館に移動する途中、この一帯を支配していた東条景信の100人規模の軍勢に突然襲われた場所である。ここで大聖人は馬に乗った地頭の東条の刀で額に9センチ(3寸)程の傷と左腕を折られる大怪我を負わされ、弟子の鏡忍坊と大聖人の救援に駆けつけた工藤公が敵の手に落ち、斬死されたと言われる。当時この付近は松の樹木が生い茂る原野であり、そのため小松原と言われたようであるが、今ではこの付近は周囲に田園が広がる閑静な住宅地となっており、当時の面影として東条の地名や建物名は幾つか残されているものの、お寺も周囲の景観にひっそりと溶け込み、このような重大な事件が過去あったとは感じられない。広い境内の中には、馬に乗り大聖人を亡き者としようとした東条の手から、大聖人を救済すべく法華経の行者の守護神とされる鬼子母神が現れたとされる、樹齢千数百年の神木の立派な槇の木が残されている。古木ながら今でも葉は青々と生い茂っている。この法難に遭ったとき、大聖人は、降り下ろそうとした東条の刀を数珠で咄嗟に撥ね付け、自らを守ったとされるが、この槇の木の上に突如現れた鬼子母神の姿に東条が驚き、落馬し、大聖人は間一髪命を救われたとされる。それにしてもこの小湊の地で立教開宗したため、東条らの反感を買い清澄寺を追われ、一旦は小湊を離れ、鎌倉で説法するも伊豆流罪となり、その後も母の病気の悪化の知らせを聞き急遽地元の小湊に戻るも、こうした事件に遭遇し、大聖人を支えてきた愛する弟子と信徒の二人を一度に失うことになった大聖人の気持ちは察するに余りある。ただこれにより大聖人自身法華経の行者たる自身の信念を...
Read more■ 御首題を書置きで頂けます ■ 種類は 1 種類です ■ 本堂右手の庫裏にて受付 日蓮聖人四大法難の一つ、小松原 法難の地に弘安二年(1281)開創され たのがこの鏡忍寺です。
安房鴨川駅から約 1.7k 離れた 静かな住宅地にあります。 参道や境内はとても広く、仁王門 や仏堂、祖師堂等の多くの建物が 立ち並んでいます。また境内右手の 日蓮聖人が難を逃れたとされる 降神槙は、樹齢千年を超えると 言われ、とても見事な枝ぶりを 見せています。
御首題は、仏殿左手の庫裏にて 頂けます。今回参拝した際には、 書置きを頂きました。住職が いらっしゃれば直書きで頂ける とのことですが、不在の場合が 多いとのことです。
2 御首題 ■ 大判サイズ 切れの良い楷書体で書かれた墨書と 三つの印の正統派の御朱印です。
3 安房鴨川駅から行き方 ■ カーシェア 約 6 分 ■ レンタサイクル 約 10 分 鏡忍寺に至る道が狭いの 少しわかりにくいので、 レンタサイクルがお勧めです。 (1) カーシェア 東口から徒歩約 4 分の場所に、 タイムズのステーションがあります。 (2) レンタサイクル 駅の東口を出てすぐの観光案内所で 借りられます。 利用時間 8:30~17:00 電動アシスト付き 2 時間 500 円 4 時間 1000...
Read more