参拝しまして🌟素敵な御朱題を✨お友達の分と弟の分と自分の分を頂きましたm(ᴗ͈ˬᴗ͈)m 以前参拝しに来た時は御朱印集めてなかったので、今回参拝兼ねて頂きに参りました
御朱印帳色々ございますが、青で金銀菊の刺繍がとても華やか✨川の流れの様な柄も入っていてとっても素敵😍💕🌟1500円 白の枠の中に、御朱印or御朱印帳等…名前入りで書いて頂けます✨∬a−∬b
御朱印袋も同じ青で金銀菊の刺繍と川の流れのデサイン柄🌟素敵😍💕1500円 自分用と、弟と、お友達の分=3袋購入しました✨ 🌟丈夫な作りで1冊入れるのにピッタリサイズ。2冊はちょっと入らないかもです。
境内はすごく広くて、前回来た時奥迄見てなかった、インドと提携を結んだ証の ■25番=仏舎利塔💖お城🏰上がゴールドで、宮殿の様な形でステキ✨ライオンの像もあり✨💖インスタ映えバッチリ(私はインスタしてませんが)🈁スポ👆おすすめです(๑´ڡ`๑)
仏舎利塔は、マーライオン、シンガポールに来たような雰囲気✨(ꈍ◡ꈍ) 境内奥が、まさかインドの塔があるなんて 一度来たときは解りませんでした。 森林超えて🏃歩いて見ないと気づけないので、パンフレット貰って行ってみて下さいませ✨
日蓮宗の歴史・日蓮宗発祥は千葉清澄寺
日蓮は貞応元(1222)年、現在の千葉安房郡天津小湊に生まれ、幼名は善日磨(ぜんにちまる)と名付けられました。12歳の時、地元における天台宗の名刹であった清澄寺(せいちょうじ)に登り、16歳で出家し名前も是聖房蓮長(ぜしょうぼつれんちょう)と改めました。19歳の頃、多くの典籍と導いてくれる高僧を求めて、比叡山(ひえいざん=京都)に登ることとなります。当時は天台宗では密教が盛んであり、また、法然による浄土宗が影響を色濃くさせつつあるなかで、蓮長は10年以上にもわたる研鑽の中で法華経こそ仏国土における経王であるとの確信を掴みます。 比叡山での修行を終え、安房に戻った蓮長は清澄寺で法華経の肝要についてはなしますが、同時に法然の浄土念仏を激しく排斥したことから、寺を去らざる得なくなり、鎌倉の松葉谷に草庵を結ぶことになります。法華経の行者としての自覚の高まりと共に、名を日蓮と改めたのも丁度この頃のことです。 当時の鎌倉は災害が頻発するなど、騒然とした中にありました。そうした惨状を前にした日蓮は日本のあるべき姿を提言した「立正安国論」を著しました。しかし、これは同時に他宗、わけても浄土宗に対して檄越な攻撃をしていたことから浄土宗の僧侶や信徒に襲われ(松葉たにの法難)、伊豆伊東に流されることとなります(伊豆流罪)。流罪を赦された後も、帰省した際に小松原で襲われ(小松原の法難)、蒙古襲来においては人心を惑わす不穏分子として、龍口で斬首されかかる(龍口の法難)など、次々に法難にに遭うのですが、日蓮はその度に法華経の行者としての自覚を高めてゆくことになります。再び流罪となった時(佐渡流罪)には、それまでの教学を大成させるため、旺盛な著作活動がなされています。 佐渡の流罪が赦された後は、有力な檀越者の領地でもあった身延山(みのぶさん)に身を寄せることになります。ここで日蓮は10年近く過ごすこととなりますが、やがて老境に入ると体調も崩し、養生を目的とした温泉に行く途中、武蔵国池上で弘安5(1287)年、入寂(にゅうじゃく=僧が死ぬこと)亡くなりました。 この時本弟子として指定された 日昭にっしょう、日朗にちろう、日興にっこう、日向にこう、日頂にっちょう、日持にちじ 6人によって法華経は弘通(仏法が広まること)と、されてゆくこととなります。
教 え 法華経は最澄によって日本に伝えられていましたが、最澄によって開かれた天台宗は法華円経・真言密教・達磨禅法・大乗菩薩戒を融合させた総合仏教とも言うべきものでした。そうした中で、日蓮は法華経の「五義(日蓮宗の流派により、様々な呼び習わし方がありますが、ここではこう呼びます)」「三大秘法」を説くことによって、その重要性を主張しました。 まず五義とは八万四千と言われる法門、即ちブッダの教えの中から、法華経こそが末法に生をうけた我々を救うものであることを5つの面から論証したものです。具体的には「教(ブッダ一代の法華経に至るまでの全ての教え)」「機(人々の素質)」「時(時代や時間)」「国(地域)」「序(過去・現在・未来の布教状況を考慮すること)」鑑みて、末法といわれる時代の日本において、法華経こそが人々を救うものであり、実は日蓮その人がブッダに末法において法華経を広めることを命じられた上行菩薩であることを明らかにしています。 そして、法華経の中でも後段にあたる部分は特に「本門」の教えとされ、その法華経に予定された上行菩薩である日蓮によって、はじめて明らかにすることのできるものと位置付けています。この教えを集約したものとして「本門の本尊(本尊とはブッダの悟りの世界であり、我々の信仰の拠り所であり、これを文字に顕した『南妙法蓮華経』を中心とする大蔓茶羅)」「本門の戒壇(ブッタの悟りの世界を本尊とした戒を授ける拠点、寺院)」「本門の題目(妙法五文字に帰依して唱題すること)」という「三大秘法」が示されているのです。 そして、この法華経ではその一句でも受持すれば、功徳があることが説かれていることからもわかる様に、この妙法五文字を唱えることによって、感応道交(我々と仏との心が通じ合い)この身がこの世にありながら、そのまま仏になると、...
Read more2024/12...
Read more今から800年くらい昔、朝廷が島流しにされるほど国が乱れ、仏教も宗派がいくつもあり、無数にある経典の中のどの教えが、お釈迦様が伝えられた教えなのかが分からなくなっていました。解説本のようなものが、余りにも多かったのでした。国がこのままでは衰退してしまう。仏教が、衆生を救えていない。死んでから救われるのではなく、生きているこの世で救われなかったら世の中は良くならない。国の現状を憂い、何とかしたい。でも、何とか出来るほどの知性が必要だと言うことで、虚空像菩薩に願をかけ、修行に入られた一人のお坊さんがいました。願いは届き、無数の経典を読破した末に、お釈迦様の直接の教えの経典を見つけました。末法の時代、国が乱れたときこそ、その現状を変えることの出来る教えであると預言されていました。お坊さんは、現実を変えるため、直接幕府に意見書を送りました。投獄や迫害にも逢いましたが、このお坊さんは、負けませんでした。命懸けで人々の生きている世の中を変えようとしている姿に、一人、また一人と、一般大衆の中から協力してくれる人が増えてきました。当時の仏教は形骸化が進み、こんな状態で、人々が救えるのかと、正したことから、更に迫害を受けました。それでも心ある真面目なお坊さんが沢山いて、「まさしく、あなたの言う通りだと」共感も得ていきました。自分の立場や自分の出世しか考えてなかったら、人々のために国を良くしようなどと考えられなくなっていたことへの気付きでした。 飢饉で餓死者が出るような世の中でしたが、人々が、自分たちでも何とかしよう、と言う主体性が芽生え、徐々に国を変えていきました。 本当に大切なものは何なのか。 自分は何のために命を与えられ生かされているのか。 正しい心の有り様とはどのようなものなのか。 助け合い、生かしあい、赦しあいながら、自分として何が出来るのかを真剣に考え、行動する人々が現れてきたのです。 このお坊さんの言葉は、「夢を語ろう、ではなく、現実を変えよう」だったのです。 末法のときこそこの世を変えることの出来る教え。 その意味する内容を正しく理解し実践する人が、今、増えてきてい...
Read more