堅田城跡(かただじょうあと)は金沢市の森本エリアにひっそりと佇む、かつての山城の遺構だ。派手な城跡ではないけど、中世加賀国の歴史を語るには欠かせない、縁の下の力持ち的存在だ。
城の起源は伝説によると、源平合戦で倶利伽羅峠を攻め抜いた木曾義仲が築いたとも言われている。ただ実際のところ、この伝説は史実とは言い難くて、戦国時代(16世紀中頃)に一向一揆勢力が防衛拠点として築いたという説が有力だ。このあたりは昔から加賀と越中を結ぶ交通の要衝で、北国街道と小原越道が交差するポイントを見下ろす絶好の立地だった。しかも森下川を通じて河北潟、日本海へ繋がる水路もあったから、軍事的にも商業的にも非常に重要な場所だった。
この堅田城を築いた可能性が高いのは、加賀の一向一揆勢力、特に河北郡一帯を治めていた木越光徳寺(きごしこうとくじ)だろう。この光徳寺は一向宗の拠点でありながら軍事力も持っていて、城を寺院勢力の防衛ラインとして利用したようだ。もう一つ富樫氏の築城説もあるけど、残された遺構の様子から見ても、一向宗勢力が従来の館跡を戦国中期以降に大幅に改修して作り上げた可能性が高い。
戦国時代、堅田城には特定の城主がいた記録がほぼない。一向一揆は城主個人の支配というより、門徒衆全体が拠点を防衛する共同体だったからだな。ただし織田信長が加賀を攻めた時期(1580年)に一揆勢力が崩壊すると、堅田城も織田軍の管理下に入った。だが織田軍が城に積極的に入ったり整備した形跡はあまり見られない。その後、織田家内紛を経て前田利家が加賀の支配者となると、堅田城の存在感はますます薄れていった。
ただこの城が不思議なのは、天正12年(1584年)の佐々成政による加賀侵攻という一大事に、あえて前田軍がここを積極的に防衛拠点として使わなかったことだ。佐々軍は堅田城のすぐ近くまで侵攻してきたんだけど、前田利家はもっと内陸の切山城に防衛ラインを築いたんだ。戦略的に考えれば堅田城が最適だったはずなのに、あえて使わなかった理由は今も謎に包まれている。
城の構造について言えば、堅田城跡には主郭を中心に複数の曲輪(土塁で囲まれた区画)や堀切が残っている。特に、山頂の主郭部分は東西に細長く整備され、西側には物見櫓を置いたと思われる盛土(櫓台)も確認されているんだ。また周囲には尾根を遮断するための堀切がしっかりと残っていて、北西斜面には防御力を高めるための畝状竪堀という珍しい遺構もある。遺構の保存状態がとても良く、まさに中世山城のリアルな姿を今に伝えている。
1990年代末の発掘調査では、城の主郭から戦国時代の土器片だけでなく、弥生時代後期や飛鳥時代の土器までも発見されている。つまりここは、戦国期だけでなく古代からずっと人が集まり続けた拠点だった。その価値が認められて、平成18年(2006年)には金沢市の史跡に指定されて、現在は散策できるよう整備されている。
城そのものは大きな合戦の舞台にはなってないけど、堅田城周辺では織田軍や前田軍と佐々成政の間でいくつもの攻防戦が繰り広げられてきた。特に天正12年に前田家の重臣・村井長頼が、小原越方面で佐々軍の占拠した城を電撃的に奪還したエピソードは有名だな。その戦略的背景に、常に堅田城が控えていたわけだ。
江戸時代に入って、前田家が加賀を安定支配すると城は廃れてしまった。1615年の一国一城令以降は、すっかり放置されていたようだが、その分だけ遺構がきれいに残ったとも言えるかな。史料では目立った記録が残らないため、一部では幻の城なんて言われてるけど、現地を訪れるとちゃんとその存在感を感じられる。
堅田城の山麓には堅田館跡という中世の館跡があって、ここからは13世紀に作られた巻数板(経文を書いた板)など珍しい遺物が出土している。しかも中国製の高級陶磁器や当時の武具・遊戯具などが多数見つかっていて、この地域が豊かで力のあった武士層の拠点だったことがよく分かる。
周辺には亀田氏館や梨木城跡、切山城跡など中世の城館遺跡も多く、まさに戦国の歴史を感じるエリアになっている。堅田という地名自体、河北潟に面した「潟田」から来ているとも言われ、水と陸の境界に位置した堅田城の役割を物語っているようだ。
地味だけど歴史がぎゅっと詰まった堅田城跡は、金沢市街から近い割にはとても本格的な遺構が楽しめる場所だ。ハイキング気分で気軽に訪れて、中世加賀のリアルな歴史を感じることがで...
Read more堅田城は比高100m程度の山上に築かれた城である。麓から約10〜15分程度で主郭まで到達できる。主郭及び登山道はそれなりに整備されている。
堅田城の城域はこの付近の山城の中では広い方である。大部分を見学できる周遊ルートがつくられているが、訪問時は夏草が延びており、木製階段も崩落しているなど、けっこう荒れていた。
堅田城の遺構としては付近の山城では珍しい畝状竪堀群が確認できる。その他にも堀切や土塁、切岸が確認できる。それなりに規模の大きな城址なので、整備を進めてほしい。
堅田城の来歴は不明だが、戦国時代の一向宗の城であったと考えられている。加賀国は戦国時代後期は一向宗に支配されていたので、一向宗による城が多い。当時の一向...
Read more頂上 (主郭)...
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