親鸞聖人の関東時代における高弟のうちの一人、唯信房の「唯信寺」を訪問いたしました。
春には桜が綺麗なお寺ですが、訪問した冬であっても凍えるような厳しい寒さの冬にもじっと耐え、慈愛に満ちた太陽の恵みを受け、やがて訪れる春に向けて花を一生懸命育んでいる桜の樹木の様子を見ていると健気さみたいなものを感じて良きものであります。
本堂でご本尊様を参拝させて頂きました。大変親切に対応して下さり有難うございました。
お寺の方から教えて頂きましたが、先の大戦で寺宝、古文書が全て焼けてしまったとのことでした。(笠間市のページや友部中学校のページの「学童疎開」に詳しいです) 爆弾が「唯信寺」のカヤぶき屋根に落ちて一気に燃え広がってしまい、お寺の方々は寺に学童疎開していた児童や先生方の避難を最優先で対応したため寺宝を運び出す時間がなかったとのことです。 お寺の方々の懸命の救出もあり一人の負傷者も出すことがなかったとのこと。 現在「唯信寺」の境内にはこの時学童疎開していた方々が後に来訪し記念植樹したコウヤマキがあります。 非常に考えさせられる話でした。
また句仏上人(東本願寺第23代法主)の句が入った寺縁起の資料も頂きまして、色々な気づきが得られたような感じもし訪問して良かったと...
Read more開基唯信房は、俗姓を宍戸の域主宍戸四郎知家の三男、山城守義治といった。義治は、どういう理由からか、若い時から仏教に興味を持ち、特に親鸞聖人の教えには感激していたという。二十歳を過ぎる頃になり、いわゆる無常観を味わいはしめ、深刻化していった彼は、盛んに稲田草庵へ出かけては聖人の教化を受け、法名を『唯信』と賜り弟子になった。寺伝では二十二歳と記されている。 このように、若くして無常を味わい聖人の弟子になった人は珍しい。弟子になったあとは、聖人の関東教化の折、いつもそばに居ていろいろと細かな仕事をしていたという。唯信房は戸守を根拠に、各地の布教活動に...
Read more親鸞ニ十四輩ニ十ニ番で、開祖の唯信にまつわる逸話が目を引く。 22歳にして人生の無常を感じて親鸞の下に通い、帰依したとのこと。 本堂は風格と雰囲気を感させるが昭和20年の空襲で全焼し信者が協力しあって再建したとのことで、信徒の熱意が伝わる立派な本堂です。 なお戦時中には学童疎開の受け入れ先になっており、記念の植樹があります。 大変落ち...
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