アエズの子、神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命と高千穂の宮で相談し、東の地で政治を行おうと船で日向を出て、まずは筑紫(福岡)に移ったんだ。 ここからの大和までの大移動を神武東征と言うよ。
豊国(大分)の宇佐に着いたとき、そこに住む宇沙都比古と宇沙都比売という兄妹が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)で食事を捧げたんだ。
そこから筑紫(福岡)の岡田宮(おかだのみや)で1年を過ごし、さらに阿岐国(今の広島県)の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国(今の岡山県)の高島宮で8年過ごしたよ。
速吸門(ハヤスイノト)で、海の道を知っているという国つ神に仕えさせることにし 槁根津日子という名前を授けたんだ。
更に上って 浪速国の白肩津(現...
Read more畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ) 初代 神武天皇陵 別名...
Read more陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」に治定されている。ただし埋蔵文化財包蔵地とはされていない。宮内庁上の形式は円丘。 記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高千社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。 現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮村大字山本)に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに...
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