川越の地名の由来となった(川越館跡)には是非とも訪ねてみたい強い願いがあります。
川越は入間川を始めとして古くから河川往来を拓け上げ(その一方で氾濫被害もあり)江戸時代には江戸両国隅田川(大川)辺りまで水路が通い繁栄を築き上げました。
(川越館跡)には入間川を渡ってまもなくして広大な史跡公園が広がります。
川越館は平安時代の終わり頃、川越重頼(しげより)により現在の上戸に築かれ、川越氏が名乗られました。 川越氏は桓武平氏秩父氏の流れを汲む武士の頭領、武蔵国(東京都.埼玉県)で勢力を誇った坂東武者を束ねました。 鎌倉幕府時代には幕府の御家人となり平氏討伐の軍勢に加わりました。
川越氏は鎌倉時代の初期の不遇な時期を乗り越えて中期から後期にかけてかっての勢力を回復しつつありました。
歴応元年(1338年)室町幕府が誕生しこれに仕えましたが35年後の3代将軍足利義満の治世、応安元年(1368年)川越直重(なおしげ)や高坂氏らが鎌倉府に反旗を翻し[平一揆(へいいっき)]を起こし川越館に立て籠りました。 あえなく敗れてこれ以降、川越氏は政治の表舞台から姿を消し、川越氏と川越館の関係も幕を閉じました。 川越館を築き、川越氏を名乗って以来これまで213年経過です。
その後(川越館跡)は度々合戦の対峙場所になりました。 天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原攻略の際に北条氏の重臣が川越館跡に陣所を据えて戦いました。 川越館が築かれて435年経過です。
(川越館跡史跡公園)は国指定史跡として昭和59年12月6日指定です。 公園には小学生の時の遠足で訪れたと話す川越市内の知人は(子供を連れて行った事もありますよ。想像力を発揮して中世の有り様に思いを馳せる史跡公園です)と案内してくれました。百聞は一見に如かずです。
川越氏が川越館を築いた頃の久寿2年(1155年)から今年令和7年(2025年)まで870年の歳月が流れています。 (川越館跡)は今後も中世の歴史を後世に語り伝えてゆく大切な遺跡です。 その遺跡を史跡公園と...
Read more今は入間川のほとりにあるただの原っぱですが、約800年前の鎌倉時代には地元豪族だった河越氏の居宅があった跡地との事で、国史跡に指定されています。 ここの館跡地からは古瀬戸や唐から輸入された青磁の破片などが出土されており、文化的にも当時の河越(現在は川越)は鎌倉と遜色ない繁栄が伺えたそうです。
鎌倉時代といえば、大河ドラマ「13人の鎌倉殿」でいま脚光を浴びており、ドラマでは坂東武者の活躍が描かれています。ここの館の主だった河越氏も比企氏や畠山氏、新田(仁田)氏らと同様、武蔵国の有力坂東武者として鎌倉幕府樹立に尽力しました。 特に平安末期に活躍した河越重頼は、その妻が源頼朝の嫡男・頼家の乳母になると共に、重頼の娘・郷御前は源義経の正妻になる等、鎌倉幕府政権の中枢に位置する有力御家人として一定の地位を築いたようです。 残念ながら、義経の岳父となったが故に、義経失脚時には重頼も連座で所領没収の憂き目を見ますが、逆に見れば源頼朝・義経兄弟の縁者としして、深く食い込んでいたとも言えます。
大河ドラマでは主人公故に悪くは描かれないであろう北条時政、義時親子ですが、史実を見る限りは頼朝の正妻である北条政子の血縁を最大限に活かし、有力御家人を次々と失脚(もっというと暗殺)させた、血も涙もない独裁政治を志向していたのです。 しかし、源氏との縁戚関係の濃さでいったら河越氏も負けず劣らず。義経さえ討たれなければ北条氏に対抗できたのでは、とついつい歴史の...
Read more国指定史跡の河越館跡史跡公園は、埼玉県川越市上戸に位置する歴史的な場所です。以下はその詳細です。
概要 所在地: 埼玉県川越市上戸
歴史的背景: 平安時代末から南北朝時代にかけて、武蔵国で有数の勢力を誇った河越氏の居館跡です23。
史跡指定: 1984年(昭和59年)に国の史跡に指定されました13。
史跡公園の特徴 整備: 平成21年(2009年)に史跡公園としてオープンしました14。
遺構: 堀や井戸跡、住居跡、土塁などの遺構が残されています5。
解説版: 記念碑や解説版が設置されており、歴史を想像しながら見学できます5。
アクセス情報 電車: 東武東上線「霞ヶ関駅」から徒歩約15分4。
バス: JR川越線「西川越駅」から川越シャトルで「上戸バス停」下車、徒歩約6分5。
車: 関越自動車道「川越IC」から車で約20分5。
営業情報 開園時間: 4月1日〜9月30日は9:00〜18:00、10月1日〜3月31日は9:00〜17:004。
休園日: 年末年始(12月29日〜1月3日)4。
料金: 無料45。
イベント 河越流鏑馬:...
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