館名は「近江屋甚兵衛・漢の物語館」にした方がいいかも(笑)。様々な反対や妨害、困難にもめげず、地元の海苔養殖に命をかけた「近江屋甚兵衛」の生涯に関する展示は、非常に興味深いものでした。 大好きですね、こういう埋もれた英雄は(笑)。
東京湾での海苔養殖は、以前は浅草や大森など東京でもおこなわれていましたが、今は埋め立てと共に姿を消し、現在では生産量の実に97%が千葉県産となっています。その立役者が甚兵衛氏という訳です。
甚兵衛氏は江戸時代中期の1766年、江戸の四谷生まれの海苔商人でした。妻や子供と共に穏やかに終わるか、と思われた彼の人生が暗転したのは54歳の時でした。妻子を亡くしてしまったのです。
甚兵衛氏は受け入れ難い衝撃と悲しみから現実逃避はせずに、より建設的で社会に貢献する行為をする事で乗り越えようと決意します。
それは仕事での専門知識を活かして、千葉方面で今までは無かった海苔を養殖し、地元の漁民たちに安定した現金収入が入るようにする事でした。どうしても漁は大漁の時もあれば不漁の時もありますからね、固定収入があれば安心感が違います。
仕事柄、甚兵衛氏は遠浅の海で適度な干満があり、川が栄養を運んでくる河口周辺が海苔の養殖に適している事は知っていました。 それで、江戸から近く条件に適合した浦安に最初に声をかけます。ここからが彼の苦悩の始まりとなります。
当時の浦安の海岸は飛行場を造れるほど平坦で広大な干潟が広がり、海苔養殖には最適だったのですが、同時にハマグリやアサリなどの採貝権や鴨猟などの既得権が複雑に絡み合う場所でもありました。
それで既得権を侵されるのを嫌った浦安は、甚兵衛氏の提案を断ってしまったのです。 断っただけではなく、甚兵衛氏が近隣の河口周辺の町で同様の提案をする事を見越して、受け入れないよう圧力をかけました。
仮に他で海苔養殖が大成功した場合、浦安は先見の明が無い集団として嘲笑されるでしょうし、近隣の町が一方的に財政が豊かになり影響力が増すのも面白くありません。
しかし「妻子の分も強く生きる」と決めた甚兵衛氏の心に迷いはありません。東京湾沿いに次は養老川河口の五井、小櫃川河口、木更津と房総半島を南下しながら精力的にプレゼンを続けます。しかし結果はすべてがアウト、相手にもされませんでした。
このあたりは突出する事を嫌う、悪しき横並び意識のせいなのか、それとも浦安の商圏や影響力は強大だったのか・・。さすがの甚兵衛氏の心も折れそうになります。無償の善意でやってるだけで、誰から頼まれた訳でもないですし。
絶望し江戸に帰った甚兵衛氏ですが、俳句の師匠に愚痴をこぼしたところ、意外な方向から光明が見えてきました。木更津よりさらに南にある小糸川河口の町「人見村」に師匠の俳句仲間がいたのです。
早速、師匠に紹介状を書いてもらい訪問したところ、新しい産業を求めていた村の思惑とも合致して名主の協賛を得るに至り、ついに、やっと、とうとう(笑)海苔の試験養殖にこぎつけたのでした。
そして2年後には江戸以外では養殖出来ない、とされてきた海苔の生育が、甚兵衛氏の予測どおり千葉県でも初めて確認され、ここから上総ノリの隆盛が始まるのです。
1人の男の小さな善意が社会や生活を変えていく、というのはアメリカ開拓時代にりんごの木を植えてまわった「ジョニー・アップルシード」の伝説と同様に実に興味深いですよね。
甚兵衛氏はのちに、この資料館のある人見村に移り住み、晩年は若者たちに読み書きを教え、好きな俳句を詠みながら穏やかに暮らしました。
墓は資料館近くの青蓮寺にあります(写真参照)。 戒名は「海山苔養信士」。これ以上、彼の人生に相応しい名...
Read more海苔の製造や製造にかかわる道具について知りたくて来ました。資料は豊富で、非常に興味深いものが多くて素晴らしかったです。ただ、内部撮影は禁止とのことで、メモが大変でしたが。 展示ルームには長椅子も置かれていて、休憩かねて、メモした内容を纏めたりするのに便利でした。 資料館のスタッフの方はとても親切で、訪問理由を聞いて富津の施設も教えてくれました。また、帰りは外で見送りもしていただきました。海苔は千葉県を代表する海産物の一つなので、色々な地域の方に来ていただき、千葉の海苔産業を知っ...
Read more展示室が階段を上がった2階にあるが、エレベーターがないため、年寄りや足の不自由な人に見学は厳しいです。展示内容は分かりやすくて良いと思いました。スタッフの方が足の弱った父のために、座って見学出来るように椅子を運んできてくれました。気...
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