信玄からの武田の主城(館)です 一度も攻め込まれた事は無かった城です、武田滅亡後も利用されていたので戦国期の遺構はかなり少なくなっていますね
城攻め衆は館(神社)よりも外周をメインに歩き廻りましょう 何よりまず歴史館で予習です、無料のゾーンだけで充分かな、そして縄張り図を手に入れて登城開始です
私のオススメルートは まずは正面の鳥居から入場して江戸期のキレイな石垣を見ながら館(神社)と周りを見て参拝しましょう そして右側の大手曲輪を目指して歩きます、深い堀を見たら正面に復元中の大手馬出、そのまま大手曲輪を進み微かに残った外堀を眺め段曲輪や土塁を歩きまわります 大手馬出まで戻ったら外周を反時計回りに歩きましょう、堀が段々深くなっていきます、主郭北の枡形虎口は無くなっていますね、公園になっている御隠居曲輪を抜け小さな曲輪を歩くと三つの石碑、何だろう? 段曲輪らしき石垣も見れます、その先右側の味噌曲輪は発掘調査中でブルーシートが掛かっています、良い発見を期待しています この辺りは主郭の堀が最も深く下部には土留めの石積みが見れます そして一番の見どころと思える西曲輪の北側の土橋と枡形虎口を抜けて再入場します 西曲輪には土塁や石碑がありますが歴史感はあまり無いかな そのまま南の枡形虎口から外に出ます、道路を少し右に歩きキレイな水堀と小さな馬出跡を見て駐車場に戻ります、お疲れ様でした 写真は4月中旬です 戦う城が好きな私にはチョット物足りなかったかな
私のスマホだけなのか写真へのコメントが出来なくなってます 時系列にはなっ...
Read more甲斐国守護・武田信虎(武田信玄の父)により1519年築城。 武田信虎は甲斐国統一後、代々甲斐盆地西部石和地方を本拠としていたが、この地が水害が多い地である為、盆地中央の相川扇状地に拠点を移したとする。 又、背後の山に「要害山城」を築き、躑躅ヶ崎館と連動の城としたのか。 信虎は京への興味深く、室町幕府足利将軍家とも親交があった為、この甲府の整備も条坊の跡が見える。 武田晴信(信玄)の代になり、積極的に領土拡大を図り甲斐の他、信濃・上野・駿河・遠江・三河まで影響を及ぼしたが、本拠は一貫して、ここ甲府であった。 信玄死去後。武田勝頼の代、1575年長篠の戦いにより大敗、これより甲斐武田氏の衰退が進む。長篠敗戦後国内動揺が生じ、勝頼は打開策として、又防御状の理由からか、拠点を甲府西部の韮崎に山城である新府城を建設し本拠を移す。しかし新府状の完全完成の前に、長篠の勝利での勢いがある織田氏による甲斐侵攻により新府城も落城、勝頼は落ち延びたが天目山で自刃し甲斐武田氏は滅亡する。 武田氏滅亡後、織田家家臣、川尻秀隆がこの地を統括し躑躅け崎で拠点としたが、本能寺の変においての動乱中秀隆死去、徳川家康が支配し引き続きこの館を中心に国内統治し、館周囲の拡大整備をした。 1590年徳川家臣平岩親吉により、躑躅ヶ崎館の南に甲府城築城。それ以降は甲斐甲府の政治中心は甲府城に移る。 躑躅ヶ崎館は古府中となり、甲斐守護武田家の館跡という立位置で存在。徳川幕府崩壊後の明治時代になり、新政府の民衆掌握の一環として躑躅ヶ崎を信仰...
Read more春日山城跡から始まり、川中島古戦場を経由して、旅の終着点に選んだのがこの躑躅ヶ崎館跡でした。あの武田信玄の居館だった場所に来て、自分の目で見られて良かったです。現地に残る建造物は少なく、館跡には明治期に武田神社が創建されています。春日山神社と同様、往時の城郭そのものに触れることは難しいのですが、かえって想像力が働くぶん、時代の名残を感じることができました。
城郭について特段深い知識があるわけではありませんが、春日山城のような急峻な山城と、この平地に構えられた躑躅ヶ崎館とでは、その性格の違いがはっきりと伝わってくるように思いました。機動性を重視した拠点であり、また領国支配の中核として人や物が集まるよう計算された場所。あくまで感覚ですが、武田が強力な騎馬軍団を擁していたことと、こうした立地選びに、明らかな関連があるのではと想像したくなります。 残念ながら、今回は時間の都合で武田氏館跡歴史館までは足を延ばせず。次こそは、もう少しじっくり腰を据えて訪ねてみたいと思っています。
余談ですが、「躑躅ヶ崎」という地名に初めて出会ったのは小学校高学年のころ。当時はフロッピーディスクしかないパソコンで「信長の野望」で遊んでいた時期で、「髑髏ヶ崎」だと勝手に思い込んでいました。「さすが武田、恐ろしい名前の館だな」などと感心しながら。しかし中学生になってふとした拍子に間違いに気づき、誰にも知られず胸をなでおろしたのも、今ではちょ...
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