紫香楽宮は奈良時代に聖武天皇が営んだ離宮で、天平16年(744)からは甲賀宮と呼ばれました。
聖武天皇がこの山深い地に宮を建てた理由は二つあるといわれます。
天平12年(740)、藤原四兄弟の一人で式家の始祖・藤原宇合(うまかい)の長男である藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。
広嗣はもともと将来を期待されていましたが、父を含む藤原四兄弟が天然痘により相次いで亡くなり、九州の大宰府に左遷されました。
政権を握った橘諸兄や吉備真備らの政策に強い不満を抱き、反乱を起こしました。
彼は官軍に敗北し、最終的に捕えられ処刑されましたが、この事件は奈良時代の政治や社会に大きな影響を与え、聖武天皇が仏教による国家鎮護を推進する契機となりました。
天皇は安全確保と政治の安定を求めて遷都を繰り返すようになり、平城京から恭仁京(京都府木津川市)へ遷都し、紫香楽宮を離宮としました。
二つ目の理由は、聖武天皇の仏教信仰への深い関心がです。
聖武天皇は天平15年(743)に大仏造立の詔を発し、紫香楽宮において盧舎那仏を建設する計画を進めました。
この山間の地で政治や精神的な浄化を目指した「仏教中心の都」を造営したかったといいます。
12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められましたが、山火事や地震などの災害により、天平17年(745)5月に平城京戻りました。
このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は変更し、東大寺盧舎那仏像として天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われ、完成しました。
現在でも、この地には勅旨や内裏野な...
Read more江戸期の早い段階から礎石や瓦が出土し文献に記載, 1926(大正15)年には国の史跡に指定, 昭和全体と平成の約半分に亘って "紫香楽宮跡" として親しまれてきたこの地区ですが,
実は昭和5年の段階で「これ宮殿じゃなくて寺じゃね?」と判明,
2000(平成12)年, ここから2km真北の宮町地区にて宮殿と見られる大型建物跡が検出, その後も関連遺跡が続々と発見, 紫香楽京の全貌が徐々に明らかに。 結果, 2005年以降 史跡域が拡大...
...とのことですが, 宮殿跡その他は発掘調査後埋め戻され, 再び田畑に戻ってしまったとのこと...
なので, 歴史ロマンに浸るには, まずこちらがマストの様ですね。
↓ この地区は現在, 紫香楽宮と並行して(総国分寺として)造営が計画された甲賀寺(甲可寺), または甲賀寺を転用した近江国分寺の跡であろうと考えられている様です。 (奈良の大仏は元々こちらに建てられる予定だったとか)
現在, お社のあるこの地点は金堂の跡であるとのこと。
(木津の恭仁宮では, 宮殿の大極殿が, 後に山城国分寺の金堂に転用されたとされていますので, こちらとは造営の発想が異なる様ですね)
紫香楽宮跡...
Read more参道前に数台の駐車スペースが有ります。紫香楽宮といって、奈良時代の天平14年(742)に聖武天皇が離宮として造営とある。何でこんな所に宮殿を作ったのか...
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